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「家康に合わせる顔がない」14.11.23 [歴史のこと]

  家康が天下を取って約260年の泰平を築いたが、

もし信長が暗殺されず天下を取って居たらこの国を統治出来ていただろうか、

まるでTの字を逆さにしたような組織、一強全弱を絵にかいたような組織ではとても無理だっただろう。

秀吉はまるで拾い物をするように天下を取ったが、所詮田舎者の生まれ一代で終わってしまった。

しかし家康は德川の治と云われる泰平をあれほど長く続かせた。

だがその基礎を築いたのはただの知恵ではなかった。

家康が徳川と名乗る前は松平と云った。

その松平は18家にも広がる親族を持っていた。

その最初を作ったのは一人の乞食坊主が三州三河松平郷近辺を流れ歩いていたことから始まる。

この坊主名を徳阿弥と名乗り、宿を貸せ宿を貸せと近辺の豪農を回っていた。

そして宿を借りながらあちこちの家に忍び込み、その家の娘どもに夜這いを掛け、

次々に種を仕込んでいた。そして出来た子供があちこちに散らばる。

後に家康が我は藤原の出などと云っていたが、藤原では征夷代将軍が下りないと知り、源氏の出身などと云い始めた。

それがいかに出鱈目であるかは世に膾炙している。

当時の大名などほぼこれと同じだ。

だが事は松平の発生にある。

今から580年程前(1435年)頃の事である。まだ応仁の乱がはじまる前、

諸国は入り乱れ、乞食坊主か何とか聖が入り乱れ道端には餓死者がごろごろ転がっていたころ。

やがて徳阿弥は親氏(ちかうじ)と名乗る。

そして我の一命を十代の子孫に捧げ、この近在を代々に亘って切り取り攻め取り、まず十代のちには三河一国を我が所領とせよ」と遠大にして強烈な遺言を残して逝った。

残した子孫は18松平とも、16松平とも呼ばれるほど広がっていった。

まず竹谷松平、形原松平、大草松平、五井松平、深溝松平、能美松平、永沢松平、石川松平、

続いて大給松平、瀧脇松平、宮石松平、

まだ増えて福窯松平、桜井松平、藤井松平、東条松平と次々と増殖してゆく。

そして松平は続いてゆく。

松平家は親氏、康親、信光、親忠、長親、信忠、清康そして家康と繋がる。

家康が生まれたのは天文11年(西暦1534年)、母は水野忠正の娘於大の方、

しかし家康三歳の時離別さされている。

水野家が織田に通じているからという理由だ。

そのころ信長は9歳、秀吉7歳、信玄22歳、謙信13歳、

しかし家康の少年時代は不遇だった、というより悲惨だった。

既に松平の家は衰微し、強国に取り囲まれ、今川の支配下に置かれていた。

家康は幼名を竹千代と云ったが、14歳の時元服して松平次郎三郎元信と名乗る。

が生まれてすぐすぐ今川に人質として差し出せとの命が下った。

そして今川に下る道すがら、世情不安な当時、織田に通じていた戸田宗光によってかすめ取られてしまったのだ。

そして織田側に売りつけられた。

当時の織田の当主は信長の父信秀、その人質を買おうと永楽銭百貫文で買い取ってしまった。

が織田方の扱いはそれ程悪くはなかった。

後に織田と同盟を結んだのもこのころの扱いが底にある。

人質の竹千代が本貫地に戻ったのは天文18年(1549年)の事、

すぐ義元から使いが来訪し,竹千代は若年であるから駿府で養育し義元が後見する、との命が下った。

やっと帰り着いたのにわずか12日後にはこの知らせ、松平党は息をのんだ。

さりとて今川に抗する程の力はなかった。

この様に家康の幼少期は人質のたらい回しにあっていたのだ。

この辛酸なめ尽くした幼少期が後年の家康を育てた。

そしてあの18松平の親藩、それを取り巻く譜代の家臣、そして関が原以降に従った外様。

それがあの260年余りの平和をもたらした。

が家康も棚から牡丹餅で天下を取ったのではない。

織田との同盟は大きな犠牲を払って続いた。

家康の最も信を置いた長男信康、最初の正妻築山殿、何れも信長の命によって命を取られてしまった。

どれ程悔しかっただろうか。

信長は家康の長男信康の才能を見抜き、我が子信忠と比べ余りの才能豊かさに後年災いが残ると難癖をつけて腹を切らしてしまった。

又築山殿は武田に通じていると難癖をつけ、遂に殺してしまった。

それにも堪え、秀吉天下取りにも協力し、最後に生き残った僥倖として天下を手にしたのだ。

そして万全の支配体制を敷いて行った。

実に巧妙に親藩と譜代を配し、その間に外様大名を置く、日本全国64国を300余家に分け統治させている。

そしてFRBもびっくりするような監視力。

そしてその盤石の組織を作り上げる。

その監視の目を緩めない。少しでも不祥事があればすぐお家取り潰し、

徳川になって以来どれほどの家が取り潰されたか、

関が原直後に取り潰されたのは74家、およそ400万石。

そのほとんどは元禄のころまでには落ち着いたが、太平の世は明治維新までつづいた。

最後に取り潰されたのは、天明八年(1788年)淡海小室藩一万石、不法を働いた罪で廃絶されている。

この国の完成は徳川時代にある。

他国がどうしても理解できない強固な一国文明、

そして主の為なら命を捨ててまで守ろうとする律義さ、

そして万世一系の天皇家の体系、

権力は武家に取られてしまっても、国家緊急の時は必ずその権威で国家を救う。

こんな国が世界にあるだろうか、それが熟成されたのが江戸時代である。

しかしたった一度の敗戦でここまで支離滅裂にされた今日の日本、

もうそろそろ目覚めて真の日本を取り戻す時期ではないか、、。

ヨーロッパなどでは戦いは日常茶飯事、一度負けたからと云って絶対にあきらめることはない。

ただひたすら次の戦いに負けない様鍛える。

しかしあの敗戦でこの国はどうなってしまったのか、

朝鮮半島から入り込まれ、又中国からも掣肘を受け、すっかり支離滅裂にされてしまった。

これでは家康に合わせる顔がない。
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