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「古き歴史を訪ねて」17.07.09 [歴史のこと]

今日は日曜日だ。

日ごろの喧騒を離れ、しばし悠久の昔に帰ってみたい。

日本の文化の中でも最も日本的なもの。

それはあの五重塔だ。五重だけではない、三重塔もあり、多宝塔という二階建ての物もある。

この際多宝塔は別に置くとして、五重塔、三重塔を訪ねてみたい。

その中で最も北にあるのは北海道札幌にあるが、

これは本願寺別院の物として建てられたもので北海道唯一の五重塔である。

次は青森県青龍寺にある五重塔、しかしこれは^平成8年建てられた現代の五重塔。

歴史的建造物とは言いにくい建物である。

次が善法寺の五重塔、寛文7年(1667,年)江戸期になって建てられたものである。

次に法光寺三重塔、ただし戦後昭和24年に建てられたものである。

岩手県に入って福泉寺五重塔、

しかし残念ながらもこれも平成になって建てられたもので新しいものである。

岩手県で本格的なものは普門寺三重塔。

これは文化6年(1809年)に建てられた本格的なものである。

秋田県では一基、日吉八幡神社の三重塔。

宮城県に入るとずっと賑やかになる。

西方寺五重塔、しかし残念ながらこれも戦後のものだ。

次が孝勝寺の五重塔。しかしこれ又新しく平静15年、何と西暦2千年を超えて建てられている。

いやはやどうして日本人はこうまで五重塔に魅入られるのか、

同県にある輪王寺三重塔、これも昭和56年の建立である。

次が東園寺三重塔これも昭和の建築物だ。

これも昭和52年とまだ新しい。

山形県に入ると海晏寺三重塔、これも今世紀になっての建立だ。

しかし尤国宝級の羽黒山の五重塔がある。

冬に入ると深深とした雪にうずもれ、夏は周りの木々に囲まれる。

応安5年(1372,年)の建立で歴史的にも堂々とした五重塔である。

次が善寶寺五重塔。これは維新後の明治26年に建てられている。

次が慈恩寺三重塔、家康が天下を取った慶長三年むに建てられている。

立石寺の三重小塔も建てられている。

が立石寺という看板も建物もない。

元亀2年(1571年)織田信長によって焼き討ちされている思えば災難続きの寺なのだ。

その都度延暦寺からもらい火をして引き継いでいた。

そして塔頭の一つである岩窟の中にひっそりと建っている。

高さ2尺9寸、つまり5.5メートルの小塔、勿論日本では一番小さいだろう。

奈良元慶寺からもらい火をして続いている。

つぎが山形県鶴岡市にある善宝寺にある五重塔、国の特別記念物である。

空海の竜神信仰に根差して建てられたものである。

真言密教の開祖空海、このほかにも多くの五十の党が建てられている。

本尊は薬師如来、しかしこれほど地震の多い国、しかし地震で倒れたという五重塔はない。

ただし室戸台風のような風速70メートルを超える台風で倒れた五重塔はある。

大阪の四天王寺にある五重塔は台風の風速70メートルの強風には勝てず、あえなく倒壊した。

その後鉄筋コンクリートで再建され、それがために国の重要文化財から外されている。

確かに立派な五重塔だが、なんだか薄っぺらい、

五重塔としての威圧感はない。

その他雷によって焼失した五重塔もある。

まだまだほんの序の口だが、全部を語るにはあまりらも多すぎる。

また次の機会に譲りたい。

「井伊直虎??これしか題材は無かったのか、、」17.01.15  [歴史のこと]

 今日は日曜日生臭い世上の出来事は別にして、暫し昔を振り返って見よう。

今NHKの大河は番組で井伊直虎の物語が流されている。

何でも女城主で井伊家一国を背負って生きた女として描かれている。

しかし井伊家の歴史にはこの直虎なる女城主など何処を探しても出てこない。

こうなると完全なでっち上げと思わざるを得ない。

井伊家は元々今川家に被官していた一族、古くは藤原冬嗣の末裔だそうだが、

そんなことはとても信じられない、

藤原の末裔を名乗れば世に通じると思っていたのだろう。

世は戦国時代、一旗揚げようと戦場で大声を上げる物は多い。

だが彼の義元が信長に打たれてしまい、その子氏直が後をついで立つ意欲が全くなく絶えてしまった。

その被官であった井伊家。

初代直平が出て来るのも1540年ころ、直宗、直盛、尚親、直正、直孝に繋ぐ、此処で家康との出会いがある。

それまで静岡県引左群引左町蟠踞していた。

がかの関が原の戦いが家康の目に留まり、長男直か上野安中藩を貰い以来幕末まで続く。

次男直純は彦根に35万石として優遇され、

幕末には彼の安政の疑獄を起こした直弼がいる。

そして一度は今川に党首を暗殺され途絶えてしまっていた。

そして直平、直盛、尚親とつないで、親藩ではないが譜代として大いに重用される。

だがどの系図にも直虎とか次郎法師などと云う名前は出てこない、

内容を書き換えて登場させたのならまだフェイクの枠に入るがこれは完全なでっち上げ、

つまり史実とは全然関係ない物語なのだ。

女城主として有名なのはかの信長の叔母が岩村城主に嫁ぎ彼の地に送られていた。

ところがその城主遠山景仁(とおやまかげとう)が病死してしまい、

やむなく女城主として戦わなければならなくなった。

攻めてくるのは武田の家臣秋山信友である。

がその秋山がその女城主にほれ込み、終に自分の妻にしてしまう。

怒った信長は総力を挙げてその岩村城を攻める。

そして遂に岩村城は陥落する。

信長はかねてからその叔母に思いを寄せており、かわいさ余って憎さも憎し、

二人を逆さ貼り付けにして処刑されてしまった。

が今回の女城主井伊直虎、ただ根拠のない作り話ばかりである。

NHKも余程歴史ドラマのネタに困ったと見える。

これで一年間どのように話をでっちあげるのだろうか。

兎に角今回の井伊直虎、女城主の物語はよほどネタ探しに困ったものとみられる。

井伊家は幕末あの安政の大疑獄事件を起こした直弼が居る。

直弼も朝廷の勅許もなく通商を開いたと攻めたてられ、終に桜田門外で暗殺されてしまう。

徳川四天皇と譜代としては特別重用されたが、

明治維新が起り、錦の御旗を薩長軍に取られたと知ると、

井伊藩は態度を豹変し新政府軍に寝返ってしまった。

一番徳川の味方である井伊家が一番に幕府を裏切り、新政府に裏返った日和見一族である。

歴史物語をこんな形で捻じ曲げてしまっては、NHKの信用も一気に地に落ちてしまう。

そうでなくとも若い子はそれを真実と信じてしまう。

今年一年どうなるか興味深々、、、

「火付け盗賊改め頭、長谷川平蔵宣以」16.11.13  [歴史のこと]

 又日曜日がやって来た。

偶には肩の凝らない昔話でもしてみたい。

テレビで有名な長谷川平蔵、悪人をバッタバッタと切り殺し、

フィリピンのドティルテも顔負けだろう。

しかし彼だけが火付け盗賊改めという役職を務めたのではない。

そもそもこの火付け盗賊改めは江戸幕府が出来てすぐの1611年、寛文11年に発足している。

江戸幕府が出来てすぐの頃である。

そして実に平蔵が受け持ったのは165代と166代だけ、

明暦8年(1771年から1772年)10月から明和9年までのほんのわずかな期間でしかない。

だがテレビでは平蔵のみが大きくクローズアップされ、数々の事件を解決している。

あれほど江戸の町で事件が起きていれば最早反乱かクーデターに等しい。

でも原作者の池波正太郎は事件を書きまくり一躍有名になった。

何しろ事は派手に書かなくては売れない。

書くわ書くわ、よくもこれだけ事件をでっち上げたものである。

この長谷川平蔵、本名を長谷川宣以(はせがわもとのぶ)と云い、幼名を銕三郎(てつさぶろう)と云った。

お蔭で本所の銕さんと呼ばれ、部下たちに大いに慕われている。

この銕さん先代が妾に産ませた子供で、後を継ぐ兆しはほとんどなかった。

そしてお定まりの悪所通いだ。

その時代の取り巻きがつい平蔵を銕さんと呼んでしまう。

そして勧善懲悪を一筋に追い、極悪人を取り締まっている。

これまで何人の銕さんを見て来ただろうか。

一番凄味があったのは丹波哲郎の長谷川平蔵。

次に松本幸四郎、のちに白鴎と呼ばれたが、既にかなりの年であり迫力が今ひとつなかった。

老年期に入ったころでありあれほど体は動かなかっただろう。

そして萬屋金之助の平蔵、少々肩に力が入り過ぎ、又鼻息の粗さが出過ぎて余りにも芝居がかっている。

そして最後の平蔵、中村吉右衛門、尾上松緑の次男坊で兄の幸四郎とは些か見劣りする。

兄が余りにもいい男だった。

歌舞伎だけではなくシェークスピア劇にも出演し、幅の広さを見せつけた。

が全盛期の吉右衛門、最後に出て来るジプシー・キングスのギターの挿入、

まさしく新時代の平蔵であろう。

実にリズミカル、そしてそのテンポの良い事。

太棹のギターを弾き、その豪快さは見事であった。

勿論ジプシー・キングスのCDは買い入れ何時も聞いている。

ボラーレで始まるサッカーの応援歌も実に楽しい。

いつもそれに乗せられてしまう。

そしてバックに出て来る京都大覚寺の渡り廊下、

現役の頃然る商社の副社長が亡くなられその葬儀に参加した。

最折しも秋真っ盛りの季節であった。

今でも強烈な印象が残っている。

少し横道にずれたが、この特別警察は実に248代も続いている。

最後の火付け盗賊改めは、慶応2年8月で終わっている。

この長谷川平蔵は最後に備中守に出世している。

慶応2年と云えば明治になるほんの一年前まで、

江戸初期から明治になる寸前まで続いていたのである。

いかに江戸幕府が市中の治安に気を使っていたか、日本文化はこのころ本当に出来上がった。

それが見てくれこれ程劣化するとは、、、
「いずれにしてもこの国は救われない」16.11.12  今朝の嬉しいニュ

「土佐20万石は一豊の機転で勝ち取った」16.10.02  [歴史のこと]

 今日は日曜日世俗の世界を逃れ、暫し歴史の世界に遊びたい。

さて話はあの山内一豊、世間では(やまのうち)と呼ばれているが、正式には山内(やまうち)と云うらしい。

もともとあの藤原秀郷の子孫首藤資清(しゅとうすけきよ)の曾孫俊通(とうとしみち)が相模鎌倉郡山内荘に居住し、山内を名乗った事による。

その後丹波三宮や尾張に転住し盛豊の時織田家に仕えた。

が信長の時攻められ一豊の父が殺される。

暫く流浪するが、再び一豊の時織田家に再び使え、信長死後は秀吉に仕える。

そして天正18年(1590年)遠江掛川5万石を与えられ掛川城主になる。

この一豊がかの関が原の合戦ではいち早く家康に近付き、家康にいち早く家康様の為なら自国領を投げ出しても良いと諂う、

この一言が決定打となり、あの戦いの後土佐高知20万2千石を与えられる。

五万石の領主から一躍20万石余の大大名に成ったのである。

正に口は重宝、使い方一つで何倍にも自国を大きくすることができる。

早速一豊は高知に入り、かの土佐城の建設に入る。

がもともと土佐は長宗我部氏の統治していた土地

その残党の抵抗は強く山内氏への抗議は止まなかった。

この一豊の出世には後に見性院と呼ばれる糟糠の妻がおり、俗名は千代と云う。

彼女が嫁する時、実家から持たせられた支度金を重量持っており、

いざという時にはそれを使って婚家を助けよとの支度金を持っていた。

いざ関が原の合戦の時その十両で名馬を買い一豊はそれで十分の活躍をし、

家康に認められ土佐20万石を与えられたと云う。

その妻を連れて高知に入部した際、旧長宗我部の抵抗は激しく、

十両程度で土佐は譲れるか、と激しくののしられた。

一豊の妻千代は十日も経たないうちに京都に逃げ帰ったという。

元々の領主長宗我部氏元親は四国全土を一時は制覇してしまっていた。

だが秀吉の成敗により元に元の土佐一国に閉じ込められてしまっていた。

無念の臍をどれほどかんだか、

そしてあの九州戸次川(べっきがわ)の戦いで尤も信頼し愛していた長男信親(のぶちか)を戦死させてしまった。

それからの元親はすべての力が抜け、生きる希望を失ってしまった。

そして末子盛親(もりちか)に家督を相続させる。

その盛親が関が原では西軍についてしまったのだ。

かくて長宗我部氏は取り潰しになり、あの一豊が入部をした。

それにしても山内家は幕末まで続き、15代豊信(とよのぶ)がかの有名な容堂である。

公武合体を唱え、徳川家に大政奉還を献言する。

しかしそれは失敗し徳川幕府の崩壊になる。

しかしその容堂も失意のうちに命じ五年に死去。

その孫豊範(とよのり)が明治17年侯爵になり最後の山内家の当主になる。

一時は流浪し、攻め滅ぼされた織田家に再び頭を下げて拾ってもらった、

一豊の機転で土佐20万石を掴んだ。

世間では最後の容堂は少々酒癖が悪かったらしい。

酒席での失敗は数々あると云う。

「関白秀次を死に追いやった秀吉の残酷さ」16.07.24 [歴史のこと]

  まず秀次を語る前にあの鶴松とは誰の子か、

またその死後すぐ生まれた御拾(おひろい、のちの秀頼)は誰の子か。

秀吉には子種が無い事は既に証明されていた。

本妻「ねね」にもその他大勢の愛妾にもただの一人も子供は生まれなかった。

ただ淀殿のみか二回も妊娠している。

淀君と云うのは信長の妹お市の方の娘である。

信長の横死を受けていち早く知りその仇を取った秀吉は、信長の孫三坊師を担いで政権を取ってしまった。

その鮮やかなることまるで信長の死を知っていたかのごとく。

だがそれでも子供は生まれなかった。

そして最初の鶴松が生まれたのが天正17年(1589年)秀吉53歳の時である。

死の9年前、突如淀君が妊娠したのだ。

どう考えても怪しい、あれほど多くの妻妾をかかえ、荒淫の余り身を縮めるのではないかと言われるほど頑張った。

がただの一人も子供は出来ていない。

それが突然この鶴丸に続いて御拾い、のちの秀頼が生まれてくる。

淀殿には主筋にある織田家の誇りがある。

それを愛妾の一員に組み込まれ、何時かは織田の血筋に取り返したいと云う怨念はあった。

さて果たして誰の子供か、片桐勝元か木村重成か、はたまた石田三成か、淀を妊娠させた男。

今となっては絶対わからぬこと。

大阪城とともにあの世に持って行ってしまった。

さて秀次が切腹をした最大の原因はこの秀吉の子供の出現によるものだが。

秀吉ももう自らに子供が出来ることはないだろうと思い、姉「とも」の息子を養子にもらった。

それが秀次である。

もう一人の弟、大和大納言秀長がいた。

まさかと思っていた秀吉の子、それか全ての誤算の始まりである。

早まってその秀次に関白職を譲ってしまった。

そこに実子の誕生だ。尤も実子かどうかわからぬが、

秀吉はなかなかの曲者、そして残忍な性格が隠れている。

信長の愛妾を櫛刺しにして殺したり、あの笑顔の下の残忍な性格は信長に仕えていたころからの本性である。

それにしても世の中は一寸先が分からぬもの。

秀吉は自分の子供が出来た事に有頂天になってしまっていた。

がその鶴丸がわずか二歳で死んでしまう。

どれ程落胆したか、その心情は想像に難くない。

がそのすぐ後、又しても淀気味が妊娠したのだ。

不自然ではないか、あれほど懲りずに励んでいたにもかかわらず、ただの一度も子供が出来たことはない。

それが都合よく淀君だけ続けて妊娠するなど。

淀にとっても子供は絶対必要。

織田の血筋を残すには子供を作るしかない。

男は誰でもよい。わが子が欲しいだけだ。かくて秀次は焦った。

もう秀吉にとって私は必要ないのではないかと。秀吉の性格をよく知っている秀次。

何時かは自らの関白職は取り上げられ、放逐されるものと考えるようになった。

案の定秀次には何題難癖が付けられるようになってきた。

しかしそれまでに秀次に言い寄っていた大名たちは、まさか秀吉があそこまで残酷な仕打ちをするとは考えていなかった。

秀次に取り入るためにわが娘を差し出し、愛妾の一員に加えてもらおうと、多くの大名たちが差し出していた。

最上義光の娘もその中に入っていた。

まだ秀次と対面もしていない娘、その他にも大勢いた。

秀吉の圧迫はますます強くなってきた。

秀次の杞憂は益々激しくなり、何度も秀吉に拝謁するために参上する。

秀吉だけではない。北の政所、つまり秀吉の正妻「ねね」の処にも参上する。

しかし秀吉の我が子への愛着はますます募り、秀次の行動は空回りをする。

秀吉の心を察した秀次は自ら高野山に退去する。

その前に退去命令は出ていたが、秀次は持ち金のすべて500両もの大金を秀吉に献上する。

がその程度では秀吉の気持ちは変わらない。

かくて秀次は文禄4年(1595年)7月15日遂にたまりかねて自ら腹を切って自死する。

秀吉の猜疑心は生まれ育ちによる自らの生い立ちからくるものだが、

余りにも急激な昇進、その位に追いつかぬわが身の出世に振り回されていた面もある。

元々秀吉は16代将軍に成ろうと思っていた。

それを備後の鞆に零落逼塞していた15代将軍義昭に打診していた。

が義昭は何処の馬の骨かも分からぬ身分のものには譲れぬ、と突っぱねていた。

ところがあの信長襲撃の時自らの屋敷を提供し、明智勢に協力していた先の関白近衛前久(さきひさ)が追われ、にげまわっていた居た時、徳川家康を頼って訪ねて来たのだ。

家康は即このお土産は大きいと秀吉に差し出す。

かくて前久の養子になり秀吉は関白に就任する。

前久もやむなく関白職を秀吉に譲る。

その関白も卒業し太閤に成り、関白職を秀次に譲っていた。

だが我が子可愛さに邪魔になった秀次を追い詰め自ら返上させるように仕組む。

秀吉とは今太閤と呼ばれ市農民から関白太政大臣にまで上り詰めた男として広く庶民には言い伝えられている。

だがその実情は決してそんなきれいごとではない。

哀れを誘うのはその後の処置だ。

秀次の血筋は全て処刑せよとの秀吉の命令は下る。

まだ秀次に御目通りもしていない。哀れなのは愛妾たちも、全て三条河原に引き出されて首をはねられてしまう。

彼女らに何の罪があったと云うのだろうか、万一秀次の子供を宿していないか、の猜疑心からである。

だがまだ実の弟大和大納言秀長か生きている間は良かった。

秀吉のやりたい放題をいさめ、真面な政治をしていた。

がその秀長が天正19年(1591年)早死にしてしまう。

まだ52才だったと云う。秀吉が狂い始めたのはそれからだ。

もし秀長が生きていたらこのような事は絶対に起こさなかっただろう。

股肱の臣を持たない秀吉、秀吉の権力による大名たちに惜しげもなく領地をあたえていた。

がそれも限界が来た。そこで思い出したのが信長の大陸進出、単に思いつきだけだった。

信長はあくまで明の領地を奪い去ること。

しかし秀吉は朝鮮の領土に拘った。

二度の朝鮮征伐にも失敗し、侘しく死を迎えた秀吉、

ただただ我が子秀頼に継がせたいと思ったが、因果応報、世の中はそうは問屋が卸さない。

耄碌爺の最後は哀れだった。

家康に縋り利家に縋り、はたまたて輝元に縋り、秀頼をよろしく、と言い残して死を迎えた。

その舌の根も乾かぬうちに家康の持ち逃げだ。

「同床異夢を見た家康と政宗」16.07.10 [歴史のこと]

仙台伊達家は古く藤原北家魚名の流れだと云う。

頼朝の奥州征伐に参加し、その功績を認められ、陸奥伊達郡を与えられたと云う。

政宗はそれから数えて22代目の当主と言われる。

政宗が生まれたのは永禄10年8月3日(1567年)である。

信長か横死する15年前の話。

15歳では如何に能力があろうともやる気があろうともとても無理な話。

しかし伊達家家内の葛藤から早くして家督を譲られる。18歳の時である。

父輝宗は隣の最上家から妻を貰っていた。

それがともすれば伊達家を乗っ取ろうとする最上義光の妹義姫である

。輿入れ最初から隙あらば伊達家を乗っ取るよう腹意を伝えられていた。

そして正宗より弟小次郎を愛した。

伊達家の意思は乱れ、遂にその小次郎を自らの手で消し去ることになる。

そればかりではない、政宗を最も愛してくれた父輝宗が畠山に人質に取られ、

その父もろとも畠山を殺さなければならなかった。

正宗一生の痛恨であろう。

時代は既に秀吉の代を越え家康のものとなっていた。

その家康も終末期、将軍職も秀忠に譲り、

豊臣も征伐し75歳の生涯を終えようとしていた時、

だが政宗が死する寛永13年(1636年)70歳で死するまで最後の最後まで天下取りをあきらめなかった。

その生き方の激烈さは仙台64万国を誇るだけでなく、

伊予宇和島潘10万国を与えられる徳川幕府の柱石として活躍する大大名として後世に名お残した男である。

が彼ほど腹黒い男もいない。

既に禁教令が出て久しい慶長18年(1613年)遠くイタリヤに使節を送り、

その力を持ってこの国を乗っ取ろうと画策した男である。

家康が死する3年前の話。

何処まで本気であったのか、家康も当時ヌエバ・エスバニアと云われたメキシコに銀の精錬をする技術を求めて使節を送ろうとしていた。

太平洋を西に渡るなど破天荒な事を思い付いたのも西洋の入れ智慧無くしては考えられないこと。

などそれに便乗してローマにまで助けを求め様とした政宗も普通の大名では考えもつかないことである。

既にカソリックは禁教とされ、宗教によるこの国への進出を禁止され、

商売にのみ特化したオランダなどの新教、所謂プロテスタントのみ交流を許す命令を下していた。

秀吉の時代から宗教によるこの国への侵略は見抜かれていた。

だが家康はヌエバ・エスパ二アに灰吹法による銀の精錬があることを知ってその技術を手に入れ様とした。

一方政宗はそれに便乗する形でローマに使節を送ろうと考えた。

正宗の忠実なる家臣、支倉(はぜくら)六右衛門常長を団長としてソテロ・ビスカイロら150名を仙台藩男鹿半島月の裏港を慶長18年(1613年)9月15日に出港する。

目的はローマカソリックの応援を得て天下を取ろうとしていたのだ。

太平洋を西に向かって次の年1月末、ヌエバ・イスパニア、今のメキシコ、そしてアカプルコ港に到着する。

そしてメキシコ市を歩いて渡り、又してもヴェラクルスのサン・ファン・デ・ウルワ港を出発し、キューバのハバナに到着する。

そこからまた船に乗り、大西洋を渡りそしてスペイン、セビリャに着く。

陸路を通り、スペインの首都マドリードに到着する。

そして慶長20年(1615年)やっとローマに着きフェリペ三世に謁見することができる。

そしてローマ市民権証書を授与される。

しかしそんなもの何の意味もなく価値もない。

既にカソリックは日本から排除されて久しい。

そして支倉常長は日本に帰るため、慶長20年閏6月21日(1615年)日本に向かって帰途に就く。

日本では大阪夏の陣が終わり天下は家康のものと決してしまっていた。

もし政宗がそのような使節を送っていたことがばれれば打ち首どころではない。

仙台藩も伊予大洲半もすべて取り上げられ、正宗の夢は消え、生きては居られなかっただろう。

しかし日本に帰った支倉常長は黙して語らず、静かに田舎に逼塞し、元和八年(1622年)死してしまった。

52才であったと云う。

政宗も忠実な良き家来を持ったものである。

結局支倉六右衛門の働きは何の意味もなく徒労に終わったわけだ。

全ての画策が無に終わった事を悟った政宗は、一転徳川の忠実な家臣に転身する。

秀吉に呼び出され、躊躇の限りを尽くして遅参し、危うく命を取られるところであった。

が家康が中に取り入り、危うく一命は救われたこともあった。

その大恩ある家康をも謀ったのである。

何処まで腹黒いか、とても一筋縄ではいかぬ男。

もっとも何時でも表面では忠実な家臣役を演じていたが、

そのあまりの忠節振りが認められ、仙台本潘だけでなく、

四国伊予宇和島に10万石の領地まで与えられる。

正に正宗の真骨頂、将軍家康を欺き核も裏側で天下取りの画策をしていたとは、

既に家康は元和二年(1616年)駿府で没している。

二代将軍秀忠も三代家光に将軍職を譲ろうとしている時、

正宗の画策陰謀は最後まで天下をあきらめなかった。

そして伊達家は伊予宇和島10万石と仙台67万国を与えられ、明治維新までつづく。

本家仙台藩は次男忠宗に任せ、長男秀宗は四国宇和島藩祖とさせる。

以来仙台藩は15代続き、宗教(むねよし)の代に明治維新を迎える。

宗教は男爵に叙せられ、宇和島潘は同名宗教(むねあつ)第二明治維新を迎える。

が早死にしてしまい結局どの爵位を受けることはなかった。

それにしても家康を謀った男、そしてそ知らぬ顔をして忠臣を装った男伊達正宗、

これ程スリリングな勝負をした男はいない。

「フロイス抜きでは信長は語れない」16.06.19   [歴史のこと]

信長は天文三年(1534年)織田信秀の三男として生まれた。

父信秀には12男、12女がいる。そして信長にも男12名女12名の子供を作った。

よくぞ作ったものだと感心するが、どちらも作った子供が真面に成長するかどうかわからない。

あの時代10人生まれても生き残るのはせいぜい2.3人程度。

父信秀は信長19歳の時42歳で病死する。

そして家督を信長に継がせる。

あのやんちゃ坊主、今で云う不良少年の見本のような信長に家督を譲るなど考えられなかった。

傅役(もりやく)の平手秀政がどれ程注意をしようとその乱行は止まなかった。

遂に自らの腹を切って説得する事態になる。

流石に信長もこれには参ったようで、のちに秀正の為に秀政寺(せいしゅうじ)を建立し祀ったと云う。

家康も家臣の信望厚かった忠長を排して家光に家督を継がせたように。

弟の信勝、信行とも言われるが、言葉上手に信長に誘い出され殺されている。

母の土田氏はこの信行を信長より可愛がっていた。

信長が家督を譲り受け、織田の当主となった時、まず将来禍根になりそうな弟の信行を排除した。

それから色々あるがあの永禄三年(1560年)今川義元を撃つまでは一地方の領主に過ぎなかった。

官位も上総介でまだ守護職ではない。

義元を討ったことにより一気にその名は国中に知れることとなる。

わずか二千七百ほどの勢力で約四万の兵力を誇る今川義元を討ちとったのだ。

それから信長の進撃は始まる。

信長27歳の頃、それから明智光秀に打たれるまでの22年間の活躍である。

邪魔をする人間は全て排除する。つまり殺害してしまう。

一体信長がどれほどの人間を殺したと思うか、大方10万人、

伊勢長嶋で約二万人、比叡山でおよそ五千人、北陸一向宗徒4万人、

浅井・朝倉連合軍。武田一族、本願寺宗徒、その他あちこちで十万人は殺しているだろう。

あの当時日本の人口は約1280万人弱、その内10万人と云えば一約8%弱にもなる。

それは恨まれるはず、今でも信長を恨んでいる子孫は多い。

だがそんな信長に一番影響を与えた男、それは宣教師のルイス・フロイスだ。

ザビエルの後を追ってこの国にやって来た。

最近吉川弘文館で出た池上裕子氏の信長の人物評には、そのフロイスの事が一行も乗っていない。

フロイスと信長の交流を書かないで信長は語れない。

流石戦後生まれの批評家である。

さてそのフロイスがザビエルの後を追ってこの国にたどり着いたのは永禄6年(1563年)。

信長が義元を討ち、天下に名をとどろかせた三年後である。

フロイス32歳、肥前長崎の横瀬浦にたどり着いた

。しかし既にこの国に来て布教活動していたザビエルは去っていた。

この布教活動にすぐ洗脳され数々の大名が口説き落されたようだが、その象徴の様な大名が高山右近。

それも父親の時代からである。

しかしそれ等に抵抗した大名も多くいた。

そして遂に和田惟政の仲介で信長に初対面を果たす。

京都二条城を建立している現場で、念願の引見を許している。

それもすぐにではなく遠くからフロイス達の行動を眺めながらそれを見極めてから引見したのである。

用心深い男だ。

後に信長はすぐに引見しなかったのは,余も伴天連に誑かされたかと思われたくなかった為述べている。

だが所詮は誑かされてしまった。

およそこの国で地球儀を見たのは信長が初めてだろう。

そして地球が丸いもの、などと他の人々には想像もつかなかったこと。

フロイスは信長の興味あることを次々に披露して行った。

信長は如何に日本が小さいか、それを実感した事だろう。

そして盛んに目の前にある明国の実情を聞きだした。

明国は当時人口約1億二千万、この国の約十倍だ。

当時国内では戦国の世が続き、これほど実力を持った武装集団はない。

その力をもってすれば明国を征服など難しい話ではない、と信長は思った。

全てフロイスから仕入れた情報だ。

信長は徹底した実力主義、既に権威だけしか残っていなかった天皇家など不要だと思っていた。

実力が全て、権威など信長にとって何の値打ちもない。

その計画を酔った勢いで秀吉に話してやった。

朝鮮半島はその為の通路である。

目的はあの明国、明国を征服した暁には秀吉にこの国はくれてやると豪語した。

そんな構想を膨らませたのもフロイスだ。

言わばフロイスに唆されたと云っても良い。

彼はこの国で布教を広めたい一心、信長の興味ある情報はすべて提供した。

そして既に国内には信長に抵抗できるような勢力は無くなってしまった。

そして慢心しきってわずかな伴揃えを連れて本能寺に宿泊した。

本能寺は信長の京での城のようなもの、そして前日夜遅くまで茶会を開いた。

それを光秀は見逃さなかった。

光秀はこの国のしきたりと伝統を一番重んじる人間。

このままではこの国の歴史を覆ささせられる。

それだけは何としても防ぎたかった。今こそチャンスだ。

この国の破壊者を葬り去る時だ。

信長から近畿管領の地位まで与えられていた男。

けっして信長か憎いわけではない。

そんな光秀の元に朝廷から色々指図が出ていた。

何とか信長を排除してもらいたい。祈るような気持であった。

その思いは近衛前久(このえさきひさ)から十分に伝わっていた。

しかし光秀は全て自分の責任において差し違える覚悟をした。

かくて信長は暗殺され、秀吉の天下となり、キリスト教禁教令を出す。

確かにそれ等は宗教による侵略である。

しかし既にその作戦に染まってしまっていた。

そして決定的に禁教令を出したのは家康である。

秀吉、家康の判断は間違っていなかった。

世界中の殆どがこの布教戦略によって征服されてしまっていた。

キリスト教と云うのは一つの戦法である。

布教活動によって自らの命を捨ててまで人々を洗脳してゆく、

日本も信長の新し物好きの好奇心によって危うく乗っ取られてしまうところであった。

だがこの国には二千年の古き文化と伝統があった。

それ等が信長の野望、そしてフロイスの野望を打ち砕いてしまった。

今も続く宗教戦争、この国はその叡智によってその手から逃れた。

信長が死して434年、今また別の勢力がこの国を従えようとしている。

所謂経済戦争として、経済だけに現を抜かすな、その心も、、

「水無月(みなづき)6月来れば思い出す、、、」16.06.02  [歴史のこと]

 天正10年(1582年)6月2日、と云っても実際には違う。

当時は旧暦、新暦に直せば6月21日になるそうだ。

しかしこれはあくまでユリウス暦、グレゴリオ暦では7月1日になるそうだ。

日本では梅雨の真っ最中、さぞ火縄銃の火をつけるのも苦労しただろう。

光秀が敵は本能寺にあり、と号令を下して兵隊達は火縄に火をつけ出した。

尤も斉藤利蔵たちの腹心の部下に知らせていたが、正に信長は驕り切っていた。

わずか70名ほどの手下を連れて本能寺に乗り込んだ。

そこを光秀が1万4千の兵員を引き連れて襲った。

正に油断大敵の見本。

信長は最早俺に逆らうやつはいないだろうと油断しきっていた。

かくて信長は炎の中で腹を切る。

まさかあれほど重用していた光秀に襲われるとは、一瞬訳が分からなかっただろう。

しかし襲撃者は誰かと森蘭丸に聞けば明智光秀とだと云う。

それを聞くや否や「是非もなし」と一言を残して炎の中で自尽した。

日本の歴史を大転換せしめた出来事。

まさかあれほど天下を従え攻撃されるなどとは夢にも思わなかった信長。

信長が世に出たのは永禄三年(1560年)桶狭間で今川義元の首を取ってからだ。

それから22年の間に天下を平らげた。

信長には神も仏もない、ただ権力と実力があれば天下は取れると考えていた。

その信長は永禄12(1569年)宣教師ルイス・フロイスを引見している。

フロイスは日本で布教したい一心、信長の興味を引くために西洋の新知識を次々披露する。

恐らく日本人で地球儀を見たのは信長が初めてであろう。

そしてすぐ隣に明と云う大国があることを知った。

フロイスからその内情をつぶさに聞き出し、それを征服することを構想する。

そしてその為には朝鮮を経由して攻め込む事を考える。

朝鮮は単なる通路だ。あくまで大陸に攻め込むこと。

その計画を立てていた。

がその頃、最も気を許す秀吉が正月のごあいさつにやって来た。

その秀吉に酔った勢いでその計画を教えてやった。

それが後年秀吉の朝鮮征伐と言われる戦だ。

秀吉は明の大国に攻め入るような遠大な計画は持っていない。

部下を従わせるのに次々に領土を与え、遂にはその原資が無くになってしまった。

そこで昔信長から聞いた大陸征伐の話を思いだした。

しかし所詮計画もなく信長の昔話を思い出したまで、

遂には商人上がりの小西行長に騙され、偽の講和を結ぶ。

だが話を聞いてみればこの国の利益はほとんどない。

そして再び朝鮮征伐を行う。

付け焼き刃と云うものはそんなものだろう。

その最中に秀吉は亡くなる。

慶長三年(1598年)最後は哀れにも我が子秀頼をよろしく頼む、と家康ほか重臣に縋った。

世の中はそんなに甘くない。

その舌の根が乾かぬうちに家康に天下を取られてしまった。

家康には18松平という親藩があり、譜代と云う家臣群がいた。

それにかなう様な指導者はいなかった。

それにしてもあの激烈な信長の生き様、毎年6月が来れば頭に蘇る。

それも今や夢物語

この民主主義と云う愚民化の果てにこの様だ。

「所詮アメリカとはトランプ程度のものだ」16.05.29   [歴史のこと]

それにしてもオバマ大統領と云うのは良心的人物だ。

あの原爆攻撃をアメリカの罪と認めて広島まで謝りに来た。

恐らくこんな人物はもう現れないだろう。

見てくれこの度の大統領選、あれが本来のアメリカの姿だ。

トランプあれがアメリカの代表者になるのか、まだ民主党との決戦は控えているが、

マスコミ各社はヒラリーを逆転しつつあると云う。

単に原爆を落としたことだけではない、あの戦争がどうして始まったのか。

しっかりその原因を探って行かなければならない。

それは日本がロシアに勝ったことからだ。

東洋の小国怖し、正論を押し立てて台頭してくる。

アメリカは恐れた。

何とかして日本を潰さなければ白人優位の立場が危うくなる。

そしてかのオレンジ計画は立てられた。

否日本人が云っているのではない、当のアメリカ人、マックス・フォン・シューラ―と云うアメリカ人が云っているのだ。

名前からしてドイツ人を先祖に持つ人物の様だが、今はアメリカ人だろう。

その人が云っている。

アメリカ人を無知で傲慢で残虐な人種だと云っている。

正に今行われている共和党の大統領候補トランプそのものではないか。

アメリカの膨張意欲はとどまることを知らず、東洋に進出してきた。

あのフィリピンをスペインから奪い取り、中國にまで手を出して来た。

もっとも日本も中国に進出しようとしたが、それは満州と云う清朝の国に進出しようとしたからだ。

もともと満州は中国のものではない。

そこに五族平和の地を作ろうと日本はした。

そこにアメリカが手を突っ込んできた。

鉄道を共同経営しようと。日本は断った。

そして無知で蒙昧な支那をけしかけて日本に対抗させた。

支那にも頭のよい人はいる。

しかしそれは科挙試験を受ける様な優秀な人間だけだ。

圧倒的に人数の支那人は無知蒙昧だ。

その支那をけしかけて日本に対抗させた。

清朝を終わらせた孫文は日本の後ろ盾で中国を近代化しようとした。

だが後ろでアメリカが暗躍する。

そして孫文を引き摺り下ろしてしまう。

アメリカと云うのは嫌アメリカを操るあの勢力は実にプロパガンダが上手い。

火の無い処にでも火事を起こさせる。実にプロパガンダの名人だ。

そして日本を悪の帝国の如く煽り立てる。

具体的には八項目の日本を戦争に追い込む計画を立てた。

勿論あの石油禁輸計画も入っている。

既に使い物にならない旧型戦艦を並べそこへ引き込むよう仕組む。

見事日本はそれに引っかかるのだが、当時すでに空母の時代だった。

それを本国に隠し、温存させた。

日本人は純情だ。大君の為に命を捧げることと自国の国体を守るためにしっかり纏まっていた。

その一極性こそアメリカの最大の敵だ。

そしてあのコーデル・ハルが最後通牒を突きつける。

見事それに引っかかってしまった。

それにしても思い切ってアメリカ本土に攻め込んでいたら、

そして空母を探し出して沈めていれば、局面は変わっていたかもしれない。

案の定約7か月後にはミッドウェーで手酷いしっぺ返しを受けた。

その延長線上だ、トランプが出てきたのは、、、

「将軍秀忠の火遊びも思わぬ忠義を生む」」16.05.22   [歴史のこと]

今日はたまの日曜日だ。

堅苦しい話は無しにして暫し昔を振り返って見てみよう。

時は江戸時代、竹千代と国千代の話は家光に謀反の罪を着せられ腹を切らされた駿河大納言忠長の悲劇として終わるが、

一方で同じ秀忠の息子として生まれ、大成功をした収めた保科正之の話。

秀忠の四男に当たる。

秀忠の正室於江与は信長の血の繋がる勝気な女性だ。

秀忠はそんな於江与に頭が上がらない。

うっかり浮気がばれでもしようものなら、ましてその子供でも出来ようものなら、親子共々殺され兼ねない。

だがそんなスリリングな嫁の目を盗んで隠し子を作ってしまった。

さあ大変秀忠は戦々恐々である。

もし正室於江与の方にでも見つかれば、すぐ下ろさせるか、母ごと殺されかねない。]

保科正之の母は神尾氏の娘でお静の方と呼ばれていた。

秀忠は側近の土井利勝に頼んで武田信玄の娘見性院(けんしょういん)に預けた。

見性院は同じ将軍の子なのに、と大いに同情した。

そして於江与の目にも耳にも入れない様細心の努力をした。

土井利勝は早速信州高遠の保科肥後守に養猶子として預けた。

やがて保科氏は死に正之は高遠の城主になった。

だが余りにも禄高が少なすぎる。わずか三万石である。

それを知った家光は正之を出羽国山形に20万石の所領を与える。

やがて会津若松28万石を与える。

かの駿河大納言忠長とは大違いである。

余程家光には幼いころのトラウマが強かったのだろう。

家光は正之を異母弟と認め、北の備えとして重用する。

近くには外様の伊達62万国がある。

しかしあくまで外様である。

正之には徳川の血が流れている。

こんな心強い事はない。

そんな家光の恩に報いるべく正之は北の備えとしての重責を担う。

正之の功績としては主君が死した際それの後を追って殉死することを禁じた。

又武家諸法度19条を改訂し、新諸法度21ヶ条を示した。

そして慶安四年(1651年)家光は亡くなる。

その臨終の席に保科正之は呼ばれた。

そして家光の意思を継ぎ幕末に至るまで德川家の守り役に身を挺することを誓う。

幕末薩長の陰謀で錦の御旗を奪われ賊軍として新政府軍に追い詰められるが、

他藩の様に徳川を裏切ることなく最後まで戦い抜いた。

あの会津鶴ヶ城での攻防戦、新政府軍にほとんどの潘が徳川を裏切る中、一人徳川を守り戦った。

又幕末京都守護職として幕府の守りとしても将軍家の守り役として戦い続けた。

それも初代会津藩主正之の北の守りを担い続けた保科家の誇りである。

例え敗れても徳川将軍家を守り通すと云う矜持であった。

そのように例え滅びようと男子としての誇りを忘れなかった。

今の日本人にそんな誇りと勇気があるだろうか、

今また日本全体が中国に飲み込まれようとしている中、

自らの命を掛けて守り通そうとする誇りも勇気もないだろう。

徳川も保科も今や遠い思い出である。

それよりなによりアメリカにすっかり抑え込まれ、独立国としての誇りも勇気もなくしてしまった日本人。

保科正之の心意気、我々はそんな誇りある民族だったのだ。

誇りを取り戻せ、、、
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