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「大王も人の子恋に破れれば、、、」15.04.12 [古代の話]

  一つの王朝が125代も続けば中にはおかしい天皇が出て来ても可笑しくはない。

第21代雄略天皇が大悪天皇と陰口されたのはよく知られているが、

第25代武烈天皇、勿論当時はまだ大王と言われていたが、この天皇も大悪を越え、

凶悪天皇と云っても良い程悪行を重ね、自らの子孫も残さず消えてしまった。

お蔭で応神王朝が断絶したと云われる所以である。

しかし何も最初からこれ程凶悪な事をしたわけではない。

この天皇の父仁賢天皇はこの皇太子一人のしか子供を残さなかった。

そしてまだ皇太子であった頃、海拓榴市(つばいち)の歌垣の夜、

かねてからから思いを寄せていた物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の娘影媛(かげひめ)に言い寄った。

が好きな人には既に恋人がいた。

そして歌垣と言われる、今でいう合コンの様な場所、


海拓榴市(つばいち)と云う処で大恥を掻かせられたのだ。

武烈天皇がまだ皇太子の頃、どうしてもその影媛を娶りたいと思っていたが、既に影媛には通じた男がいた。

それは大臣(おおおみ)の平群真鳥(へぐりのまとり)の息子、平群鮪(へぐりのしび)であった。

当時大臣とは一つの独立した小王の様なもの、

最初から大王など馬鹿にして大王の云うことなどてんで聞かなかった。

舎人に平群の大臣の元に行かせ、太子よりの命令で官馬を出せと云う命令を伝えた。

が返事では誰のために官馬を用意いたしましょうか、大王の命令のままにいたします、

と答えたが一向に馬は差し出されない。

それでも天皇は我慢し、顔には出さなかった。

そしてまだ皇太子だった小泊瀬稚鷦鶉(おはつせのわかささぎ)と呼ばれていたころ、

すぐに大伴金村(おおとものかねむら)に相談し、武力を持って討伐してくれるよう頼んだ。

大伴家は昔から朝廷を武力で支える役目の豪族、のちの大伴家持の先祖である。

そして平群鮪、そしてその父平群真鳥も打ち取ってしまった。

それだけではない、平群一族をことごとく殺し殺してしまった。

そして遂に天皇の位につく。

途端に人が変わったように狂暴になる。

町で見かけた妊婦の腹を切り裂き赤子を掴みだす。

かと思うと人の生爪を剥がし、芋を掘らせる。

極めつけは若い娘を集め、目の前で馬の交合を見せる。

そして娘の性器が濡れていないかどうかを確かめ、濡れていればその場で殺してしまう。

まったく凶悪を通り超えたような乱行。

そして毎日酒宴を開き酔いつぶれる日を送っていた。

当然妃を迎えることもなく子供も残していない。

そして即位後8年にして崩御する。まったく凶悪な天皇であった。

彼の雄略天皇が大泊瀬と言われたが、この武烈天皇の名も小泊瀬と名乗った。

どちらも最悪の天皇だったことは間違いない。

長年の天皇家の歴史の中にはこのような天皇も居たのである。

戦後何でも言えるようになり、天皇家の事も白日にさらされたが、

戦前は皇国史観と云う縛りの中でとてもこのようなことは云えなかった。

が天皇制がどれ程この国の危機を潜り抜けてきたか、

もし天皇と云う芯柱が無ければ国はとっくに滅びていたことだろう。

「漢の武王を擬した桓武天皇の苦悩」15.03.29  [古代の話]

 恒々たり武王、厥(そ)の土を保有せり、と漢の武王に擬せられた第50代桓武天皇。

武王とは中国の周の時代を開いた皇帝。

正にその勇ましさは平安時代を開いた天皇にふさわしい名前であった。

しかしその名前とは裏腹にこれほど数々の怨霊に祟られ戦々恐々とした天皇も珍しい。

最初は殆ど天皇になれる目はなかった。

第46代と48代を務めた孝謙、称徳天皇で天武系の皇統が途絶え、

しかし後継者がいなかった訳ではない。

その天武系を天智系の天皇にひっくり返した藤原百川(ももかわ)、良継(よしつぐ)等の策略によって強引に変えられてしまった。

正にあの不比等の思惑通り、天皇家を操る藤原一族によって翻弄されたた標本の様な人事。

もともと父親の光仁天皇にも天皇になれる目はほとんどなかった。

それも当時人生50歳と言われた時代、光仁天皇が即位したのは既に62歳になっていた。

とりあえずピンチヒッターと云うところだ。

そして陰湿な工作は始まる。

称徳天皇の異母姉、井上内親王(いのえのないしんのう)を光仁、いやまだ白壁王(しらかべのおおきみ)と言われていた時代。

その井上内親王を夫人にしていたことだ。

そして光仁天皇が即位し、井上(いのえ)の皇后と呼ばれるようになる。

その井上皇后には既に立派な皇子がいた。

名を他戸親王(おさべのしんのう)と云う.それが後を継ぐ筈だった。

が藤原百川たちはその井上皇后に、天皇を呪詛したと難癖をつけ、引き摺り下ろしてしまう。

そして他戸親王ともども皇后の座から引き下ろし、幽閉してしまう。

まるで座敷牢に入れられたような幽閉、恨みを満身に残しながら二人は悶々の内に死んでしまう。

もともと桓武天皇は天智天皇の孫に当たり、しかも生母は高野新笠(たかのにいがさ)という百済系の帰化人だ。

光仁がまだ白壁王と言われた時代、多くの妻妾を抱えていた。

その中の一人。

誠に位低き側女の一人、白壁王はどうせ天皇になれる目しないと、酒と女に溺れ現を抜かしていた。

かくて光仁天皇は死去し桓武天皇に座は回ってくる。

時に天応元年,西暦781年、遂に桓武天皇は即位する。

が既に37歳を過ぎていた。

父光仁は758年従三位に昇進しやっと公卿の仲間入りをする。

それほど位は低かったのだ。

桓武天皇は天皇として即位する前は山部王(やまべのおおきみ)と云われていた。

その母高野新笠はその昔和史乙継(やまとのふみおとつぎ)と土師宿禰真妹(はじのすくねのまいも)という名もない夫婦の娘だった。

話しは変わるが高野新笠の話は今上天皇がこの国にも半島の血が流れていると云われたことがある。

途端に日本の皇室には我々の血が流れていると朝鮮半島では鬼の首を取ったように大騒ぎした。

馬鹿を云うなこの国にはあらゆるところから血は流れ込んでいる。


もともとこの国の先祖を手繰れば今のアメリカ以上の多民族国家だ。

遠くユーラシア大陸を伝って流れ込んだ民族もある。

そしてモンゴルオロチョンから朝鮮半島伝いに流れ込んだ部族もある。

またシナントロプス・ペキネンシスの末裔もあの半島を伝い、又直接海を渡って流れ込んでいる。

まだ黒潮に乗って南の島から流れ着いた民族もいる。

朝鮮半島で人類が発生したわけではない。

それ等がまとまって今の大和民族を作ったのだ。

さて思わぬハプニングハブで天皇になった桓武天皇。

その分だけ多くの恨みを買っている。

その怨霊の強さから逃れるように300年続いた平安京を捨て遷都を始める。

まず光仁天皇は桓武の後は弟の早良親王(さわらのしんのう)に譲るよう遺言していた。

が百川、種継らはそれを反古にさせてしまった。

一方桓武天皇はそれらの怨霊から逃れるように、最初長岡京にその地を求めた。

しかし首謀者の種継が矢で首を射抜かれ暗殺されてしまう。

その犯人大伴家持の一族であったため、一族は遠く佐渡に流されてしまう。

大伴家持はその前に既に死していたが、、、

そして秦氏の進める平安京に再度遷都する。

しかし不幸は合い続いて起きる。

種継暗殺の犯人たちの中から桓武帝を排し、早良親王を擁しようとする動きがあったことを告白するものが現れた。

早速早良親王は乙訓寺(おとくにてら)に幽閉される。

そこで無実を訴えるが、かなわぬと見て自ら食を絶って自死してしまう。

まだまだ不幸は続く。

早良親王が憤死して三年目、桓武天皇の最も寵愛する夫人藤原旅子(たびし)がわずか30歳で死んでしまう。

後の淳和天皇の母だ。

次にあの母高野新笠も死んでしまう。

続いて三カ月も経たないうちに皇后乙牟漏(おとむろ)が急死してしまう。

そんな頃この国の東北では蝦夷の反乱が相次ぐ。

最初の征夷代将軍には文屋綿麿(ふんやのわたまろ)が指名されるが、大した業績を開けられなかった。

そして何人かその役に任命されるがどれも功績を上げられなかった。

そして遂にあの有名な坂上田村麻呂が任命される。

そして数々の夷敵を攻略し、遂にその頭目阿弖流為(アテルイ)を説得し降伏させる。

そして都に連れ帰るが、都の官僚たちはアテルイの首を無残にもはねてしまう。

田村麻呂は落胆するが、その功績としてあの清水の地を貰い、清水寺を建てる。

かくのごとく内なる怨霊とも戦いつつ、この国の骨格を整えて行ったのだ。

そして新しい都に遷都しようと新御所を建設しようとした。

時に794年、それでも怨霊から逃れられぬと判断し、秦氏の進める山背(やましろ)の地に又しても遷都する。

それが現在も続いている天皇家の御所だ。

尤も明治維新により東京に移されてしまったが、かくて現在の首都は東京になってしまった。

かくのごとくこの国の骨格は定まっていった。

桓武朝は25年続くが最後まで悩みは尽きない。

悩みはまだまだ続く。

二回の遷都によって農民は益々疲弊し、逃亡するものが絶えない。

明治維新までつづく平安京をひらいた天皇として名を残すが、

次を継がせる安殿親王(あでのしんのう)些か正気ではない。

そして藤原薬子は自らの娘を安殿親王に嫁がせる。

それを理由に安殿親王に取り入り、娘を出汁にして親王そのものの妾となる。

それを桓武は鋭く叱る。

後の平城天皇の事だ。

だが桓武の死後それは現実になる。

悩み尽きない生涯だった。

「日本史上最大の功労者か、又最悪の大悪人か、、、」15.03.15 [古代の話]


 さてその不比等である。

偉大な政治家と言われ、この国を、未開の習慣法の国家から成文法の近代国家に築き上げた人物と讃えられる。

又その反面にこの国の皇室を乗っ取った大悪人とも呼ばれる。

そもそも藤原家の前は中臣氏と呼ばれていた。

中臣氏の元は天御中主尊(あめのみなかのぬしのみこと)と云われる。

それから12代目が鎌足だ。

別名鎌子とも呼ばれ、中大兄皇子と手を結び蘇我一族排除に協力した。

大化の改新を断行し歴史上の大人物と崇められた。

そしてその死に対して藤原姓の名前を与えられ、藤原の土地は与えられ、

大職官、内大臣、の地位まで送られた。

不比等はその鎌足の二男である。

不比等の誕生は斉明4年、(658年)の生まれ、白村江の戦いの五年程前の生まれである。

鎌足の長男定恵は不比等五歳の秋にこの国に帰ってくる。勿論中国に勉強のためにだ。

が帰国後すぐ死去する。23歳の不思議な死だ。

そして不比等が藤原の相続者になる。

そして20歳になり、初めて出仕する。

最初の名前は中臣連史(なかとみのむらじふみと)と呼ばれる。

そして蘇我臣連子(そがのおみむらじこ)の女(むすめ)娼子(しょうし)と結婚する。

そして長男武智麻呂(むちまろ)が生まれる。

不比等14歳の頃天智天皇が崩御する。

そして彼の有名な壬申の乱がおきる。

そして弘文天皇は自死し、天武天皇が即位する。

そして天武7年、初めて出仕する。

そして房前(ふささき)が生まれる。

がその娼子が死去してしまう。

そして加茂の君の女(むすめ)加茂比売(かもひめ)と再婚する。

そして長女宮子(きゅうし)が誕生し、その宮子は長じて文部天皇夫人になり、

次女長蛾子(ちょうがし)が生まれる。

長我子は長屋王(ながやのおおきみ)の夫人となる。

次に宇合(うまかい)が生まれる。

このころ氏長者藤原朝臣大嶋薨去、不比等が氏の長者になる。

そのころ美努王(みぬのおおきみ)の妻だった県犬養美千代(あがたのいぬかいのみちよ)と再婚する。

この年正三位大納言になる。晴れて公卿入りだ。

そして後に孝謙、称徳天皇となる安宿媛が生まれる。

犬養美千代との間に光明子(こうみょうし)が生まれる。

そのころ他の夫人五百重姫(いおえひめ)との間に麿呂(まろ)が生まれる。

そして41歳の時、藤原姓を名乗れるのは不比等一家のみ、あとはすべて元の中臣に戻るよう詔を出させる。

さて武智麻呂は南家と呼ばれ、房前は北家と呼ばれ、宇合は式家とよばれ、麿呂は京家とよばれる。

この四人が不比等の思想を盤石に基盤を支える。

犬養美千代との間に生まれた光明子、のちに聖武天皇の皇后となる。

そもそも天武天皇の命令で皇后になれるのは皇室の出身者でなければならなかった。

それを強引に皇后に立てる。

加茂比売との間に生まれた宮子を文武天皇の夫人(ぶにん)に入れる。

そして娘の宮子に首皇子(おびとのおうじ)、が生まれる。

後の聖武天皇である。つまり不比等はここで初めて天皇の外戚になるわけだ。

此処ではまだ皇后ではなく夫人の名前だが,その後娘の光明子を聖武天皇の皇后に入れる。

そして光明皇后と名乗らせる。

そこでこの功績をたたえて二階級特進する。

およそ臣下から皇后になったのは初めて、如何に不比等の威光が強かったか、

何人も不比等に逆らえないような権力を完成していた。

不比等には6人もの夫人がいた。

が最初の夫人昌子は武智麻呂と房前を生んで早死にし、

次に再婚したい加茂比売女(かもひめ)との間に宮子、文武天皇夫人を産み、

五百重姫の間には麿呂を生み、県犬養美千代との間には光明子を残している。

その光明子が聖武天皇の皇后になる

。此処からこの国の歴史は大きく変わって行く。

その光明子は後の孝謙、称徳天皇になる安宿姫(あすかひめ)を生む。

つまり皇后になる資格の無い娘を強引に皇后に知るほど権力を掌握していたのだ。

不比等の専横はここに極まる。

長男の武智麻呂は後に正一位左大臣になり、次男房前も正一位左大臣になっている。

宇合も正三位太宰の師(そち)になっている。

そして麿呂は従三位、参議兵部卿時節大使として奥羽開発に務めた。

しかしその四兄弟が突然天平9年、(737年)同時に流行病にかかって急死する。

だが既にその子たちが既に政治の重要な役職についていた。

武智麻呂の次男仲麻呂は孝謙天皇のお気に入りで引き立てられ、

恵美押勝の名前を与えられ、後に道鏡が出てきて仲麻呂は失脚するが、

一番栄えた北家の房前は枝を隅々まで伸ばし、この国の基盤を盤石にする。

この後天皇の皇后とか妃夫人になるのは藤原家出身者でなければなれないような法則を作る。

これにより自由に皇室を操れる権力を手に入れる。

正に日本はこの藤原家を筆頭に、源氏か、平家か、橘氏しかない中で混血してゆく。

その中でも藤原が一番栄える。

後年藤原はあらゆる名前に変わりこの国の中で広がって行く。

武家になった藤原氏は武藤と云い、御所の後衛を務めた藤原は後藤と名乗り、

左衛門丞の藤原は左藤と名乗る。かくのごとく藤原はこの国の隅々まで広がって行く、

そのすべての元はかの不比等だ。

その不比等の企みは大成功する。

その不比等は養老4年(720年)正二位右大臣を持って薨去する。

だがすぐ正一位太政大臣を追贈される。

死後もこの国の先駆者としての敬意は与え続けられる。

後年1020年ごろ一族を代表するようにかの藤原道長をしてこのような歌を詠ませる。

「この世をば 我が世と思う望月の 欠けたることをなしと思えば」と云わせるほど栄華を極める。

中でも房前の北家が最も栄える。

珍しいところでは有名な紫式部も房前の末裔である。

勿論田原の藤太秀郷も北家の出、近衛も藤原摂関家関白忠道からの別れる。

つまり北家から分かれて出る。

西園寺も藤原からの分かれ、1224年頃北家閑院流公実(きんざね)から別れる。

そして西園寺家は明治の政治に大いに関与した公望(きんもち)までつながる。

三条家も三条西家も皆藤原からの別れ。

勿論今でもつながっているだろうが、かくのごとく不比等の企みはこの国の骨格、

とりわけ天皇家の後ろ盾となって大いにその名を残す。

「卑弥呼とは一体誰か、、、15.03.08  [古代の話]

 この国では卑弥呼、卑弥呼と喧しいが、一体誰なのか今もってはっきりした答えはない。

しかしあちらの魏志倭人伝にはそれらしき存在はしっかり書き残されている。

日本では神功皇后の事だと云ってみたり、果ては天照大神だと云ってみたり、

第七代交霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)ではないかとも言われている。

あちらの年号景初元年は西暦245年ごろに当たる。

この魏志倭人伝の中の東夷伝を書いたのは陳寿と言われる人物。

陳寿がこの書を書いたのは280年頃、

その中には、、其の国元男子を持って王と為す、住(とどまる)事七、八十年、倭国乱れ、

相攻伐して年を歴たり、乃ち共に女子を立て王となし、

名付けて卑弥呼と曰す、鬼道を事とし能く衆を惑わす。

男王ありて国を治むるを佐(たす)く、年巳に長大なるも夫婿なく、

王となりし自(より)し以来見る事こと少なし、、とある。

そのころこの国の歴史書、日本書記では丁度神功皇后が治めていたころになっている。

神功皇后が治世していた年代は西暦201年から269年の69年の間。

しかし余りにも実態とかけ離れている。

これ程長年国を治めていたにも関わらず、天皇としては記載されていない。

神功皇后はあくまで第14代中哀天皇の皇后でしかない。

その神功皇后にある日神からお告げある。

「西の方に金銀をはじめ様々な宝に満ちた国があるその国を与えよう」と神託があった。

たちまち中哀天皇にそのことを進めたが、天皇は一向に乗り気ではなく、

九州の熊襲退治に出かけようとした、がそこで死んでいる。

謎の死である。又卑弥呼は二人いた、という先生まで現れた。

この先生何が何でも九州に王朝を持っていきたい方。

さて箸墓、そこに祀られているのは一体だれか、その箸墓が作られ始めたのが丁度240年頃。

日本の前方後円墳の始まりと言われる巨大古墳。

だがこの全長280メートルもある。

そしてこの古墳は全国でも11.2番目の大きさと言われる。

一番大きいのは大仙山古墳、現仁徳天皇陵と言われているが、これも最近異論が出てきている。

大体この国ではっきりしているのは、九州の岩戸山古墳に入っている筑紫の磐井以外にない。

がこの国の日本書紀には一切卑弥呼は出てこない。

欠史八代と言われる天皇の中にはこの交霊天皇も入っている。

にもかかわらず、あの箸墓伝説だけはすこぶるその存在が大きい。

日本書紀ではその交霊天皇が治世した年代は紀元前290年から215年までの75年間。

卑弥呼が存在した年代とは余りにもかけ離れているだろう。

実はあの推古天皇9年、西暦600年から一蔀(いちほう1260年)遡らせたことが大きなずれとなっていることは明白。

あの箸墓伝説の中ではこの「ヤマトトトヒモモソヒメ」は大国主命の妻であり、夜ごと通ってくるがその姿を見たことがない。

その為一度お姿を見たいものと大国主神にお願いした。

すると大国主命が、明日貴女の櫛箱の中に入っているから開けてみてくれと云った。

そしてその姿を見ても決して驚いてはいけない、とくぎを刺した。

そして次の朝モモソヒメは櫛箱を開けてみて驚いた。

そこには一匹の美しい子蛇が入っていたのだ。

モモソヒメは驚きの声を上げた。

と途端に大国主命が姿を現し、よくも私に恥を掻かせたなと怒り、三輪山の方に飛んで行ってしまった。

モモソヒメは余りの事に驚き腰を抜かして座り込んだ。

その時持っていた箸が陰部(ホト)に刺さり死んでしまったと云う。

箸で陰部を差すなど、よくもこんな事が書けるもの、

如何に日本書紀がいい加減なものであるか、しかもそれがこの国の正史である。

このモモソヒメ、一日に百回も襲うという恐ろしい名前、

それが卑弥呼ではないかと云われている。

しかし日本書記には一切その名前は出てこない。

このほかにも日本書紀にはいかがわしい記載が多い。

しかしある意味ではそれらを包み隠さず、そのまま載せている所に信憑性がある、と評価されている面もあるらしい。

さて箸墓はこの国最初の前方後円墳である。あの頃はまだこの陵を取り巻く周濠池はなかったようだ。

が後に近くの農民が灌漑用の池を作った。

だから一方にのみ大きな池がある様だ。

その古墳を作るに於いては、昼は大坂山から人伝いに手渡しして石を運び夜は神が作ったと伝えられている。

それにしてもあの地域に集合する古墳、実に35個もある。

中でも箸墓は最大級のもの、勿論奈良平城京の近辺にも多くある。

空から見れば大和盆地は前方後円墳だらけだ。

ちなみに神功皇后陵は平城京の北側にある。

卑弥呼が死したのは西暦245年ごろ、そのころ丁度日本列島で日食が起きる。

そして巫女たる者それも予測できなかったのかと責められる。

そして死している。果たして自然死なのか自殺なのか、不自然な死である。

死した途端、又国内が騒然とし争いが起きる。

そして卑弥呼の宗女台与(とよ)が立てられる。

そしてやっと争いは収まる。

果たして台与とは何者なのか、それも日本書紀には一切記されていない。

古事記は正史と認められていないが、

実際にトヤマトトトヒモモソヒメが生存した年代は紀元前290年から215年頃まで、

崇神天皇が日本書紀に出てくるのは紀元前97年から前30年迄、

その崇神天皇には大叔母に当たる。余りにも年代が違うだろう。

丁度秦の始皇帝が中国全土を征服した頃。

そのころ秦の始皇帝の征服からはじき出された多くの中国人がこの国に逃げてきた。

それまでは縄文時代。

一つは朝鮮半島を陸伝いに、又直接海を伝って逃げ込んだ人間が多かった。

稲作を持ち込み、鉄を持ち込んだ渡来人、この国をどれ程発展させたか。

一気にこの国は秩序ある国家として変身してゆく、だが当時この国は文字持たなかった。

その為大権を主張するには巨大な古墳を作り人々をその権威の元に従わせていた。

兎に角日本の古代は読めば読む程分からなくなってくる。

卑弥呼も台与もいったい誰なのか今となっては分らない。

が意図としてわからないように編纂したのはかの藤原不比等だ。

日本書記は天武天皇の発案で書かれ始めたが、それを編纂したのはこの藤原不比等だ。

その日本書記の完成を見て安心するようこの世を去った。

「聖徳太子の謎」15.03.01 [古代の話]

 日本の歴史上これ程謎に包まれた人物はいない。

確かに上宮豊聡耳皇子(うえのみやとよとみみのおうじ)とも厩戸皇子(うまやどのおうじ)と云う人は居たかもしれない。

が聖徳太子と言われるは時代が相当下ってからの話である。

歴史家の小林恵子(ひばやしやすこ)氏は突厥厥可汗建頭(とっけつかかんたるとう)だったと云い、

だんだん述べるにしたがって平仄が合わなくなり、最後は時空を超越し歴史を動かした慧思の後身だとも言っている。

ああだこうだと云っている間に結局聖徳太子はいなかった、などと云う珍説まで飛び出すようになった。

そして古事記の中には業績が一切書かれていない。

尤も古事記には推古天皇の事などほんの一行しか書かれていないのだから太子の話など出てくる余地がない。

が日本書紀には誠に詳しく61ページにわたって詳述している。

推古元年(西暦593年)夏、厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのおうじ)を摂政として立て、

一切の政務をとらせ、国政のすべてを委任したとある。

つまり事実上の天皇の位置についたことになる。

推古天皇は一切政務に関与しない。

しかし実質上その政権を操っていたのは蘇我馬子だ。

全て馬子の操り人形、権力のすべては馬子が握っていた。

折からの敬仏、廃仏戦争の最中で、廃仏を主張する物部一族との壮絶なる戦い、

最後は馬子側の勝利となり全権を掌握する。

勿論聖徳太子も馬子側として参戦する。

なぜなら太子には蘇我の血が色濃く流れているからだ。

勿論推古天皇にも、、、

父親は用明天皇、母親は蘇我馬子の孫、穴穂部間人皇后(あなほべのまひとのこうごう)。

厩戸の名前は母の間人皇后が馬舎で生んだことによるらしい。

何故かキリストの誕生が馬舎で生まれた事とよく似ている。

話を戻すと聖徳太子も推古天皇も全て蘇我馬子の意思のままに動かされた政権と云えよう。

そもそも推古天皇が即位したのは、その前の天皇崇峻天皇が馬子に弑逆されたことにある。

勿論崇峻天皇も馬子の甥だ。

日本の歴史の中で天皇を直接手に掛けたのはこの馬子しかいない。

東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を殺させた。

崇峻天皇はやがて馬子に殺されるだろうと予想していたという。

それ程馬子の思い通りにならなかった天皇。又それほど蘇我氏は権力を持っていたわけだ。

しかしこの東漢直駒に馬子は自分の娘を誘拐される。

勿論怒った馬子は即この東漢直駒を殺させている。

そもそも蘇我氏が現れるのは孝元天皇の孫武内宿祢、石川宿祢を始祖とする。

そして蘇我満知―韓子―高麗-稲目―馬子と繋がり、この後蝦夷につながり、

そしてあの有名な乙巳の変によって暗殺され入鹿の代で途絶えてしまう。

つまり聖徳太子登場の頃が絶頂期であったのだ。

用明天皇も推古天皇も共に馬子の孫、。

つまり蘇我一族が天下を支配していたようなものである。

そして推古10年、西暦601年そして太子はあの有名隋の煬帝(ようてい)に書を送り激怒させる書を送っている。

それには「日出づる国の処の天子、日没する国の天子に書を致す、恙が無きや、云々、、」

勿論この礼儀知らず奴、と擁帝は湯気を立てて怒る。

そして使者小野妹子(おののいもこ)に裴世清を伴わして帰国させる。

要するに世間知らずな大口をいさめるためだ。

それを聞いた太子は以後3回も隋に使節を送っている。

しかしその隋そのものがあっけなく滅びてしまった。

そして唐の時代になる。そして太子は推古12年、この国初めての冠位12階を作り官僚制の元を作った。

601年斑鳩の地に宮を建て寺を作った。

馬子に距離を置くためだ。そろそろ馬子から独立をしたかった。

それは太子にとって密かなる願いだ。

又太子には四人の妃がいた。

推古天皇と敏達天皇の間に生まれた菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)、

膳部菩岐岐美郎女(かしわべのほほききみのいらつめ)、

馬子の娘力自古郎女(とじこのいらつめ)、位奈部橋大郎女(いなべのたちばなのひめぎみ)、

それ等の間に14人の王子と姫君をなしている。

その中でも一番皇位に近いのは山背大兄王(やましろのおおえのおおきみ)である。

そして独自の政治を行いたかった。

しかしその報いは長子山背大兄皇子に祟ることになる。

馬子の孫入鹿が山背大兄皇子を攻め滅ぼしたことによる。

山背大兄王にも7人の子女がいた。

が入鹿の攻撃で追いつめられ、一族もろとも果て死んでしまう。

実にはかない最後である。

又太子はかの有名なこの国初めてとなる憲法17条を発布する。

何よりも有名な第一条、和を持って貴しとし、仵(さからう)ことなきを宗とせよ、と、しかしむしろこの憲法では一条より第十二条の方が注目される。

「曰くこの国には二人の君はなく、民に二人の主はいない」とあるこれがこの国の骨格となったことは言うまでもない。

それは今でも生きている。強烈に国を引っ張る人材のいないこと。

又突出することを極端に忌避する所。そして622年、聖徳太子が突然の病に倒れ死去してしまう。

西暦622年と云えば推古30年、太子49歳の時である。

妃の一人膳部郎女と共に病に伏せ、あっけなくこの世を去ってしまう。

そのあっけなさに数々の疑問が呈されている。

しかし馬子はこの後まだ四年程長生きをする。

推古天皇も長命でさらに二年長生きをした。

余りのあっけない死に疑問の声は沸々と上がっている。

ひょっとすると暗殺でしないかとの噂まで出ている。

又自殺ではないかとの噂まで上がる。

そして聖徳太子の子孫もその子山背大兄皇子の代で途絶えてしまう。

勿論入鹿の策謀によるものだが、その報いとして中上大兄皇子と中臣鎌足によって入鹿は誅殺されてしまう。

これによりあれほど権勢を誇った馬子一族も途絶えてしまう。

しかし兎に角聖徳太子は謎の人だ。

聖王と呼ばれ、一度に10人もの違う人の意見を聞き取りすべてに答を出した太子。

かの日本霊異記にも取り上げられ仏の化身と崇められた人物。

天皇に一番近い位置にあり、とうとう天皇となることが出来なかった皇子、

馬子の企みがどれ程強かったか、また馬子がどれ程聖徳太子を恐れていたか、

今となっては知る由もないが、日本史上最大の謎に包まれた皇子であった。

「まだ大王と呼ばれていた時代の話」15.02.22  [古代の話]

 この国には長い歴史が存在する。

一つの王朝がこれほど続いているのも世界では例がないだろう。

実に二千年以上、がこれ程長ければ中にはおかしな話の一つや二つは出てくるもの。

古事記にしても日本書紀にしても必ずしも綺麗ごとばかり書いているわけではない。

そして大陸との交流もそのまま載せているのではなく、全くかみ合わない様わざと記述を編集している。

例の倭の五王の時代、讃、珍、斉、興、武、と言われた大王の物語はこの国と大陸との関係をよく表している。

まず讃(サヌ)とは誰か、それは16代仁徳天皇か、17代履中天皇であろうと比定されている。

次に珍(チヌ)とは18代反正天皇と言われている。

次に済(ツー)と呼ばれたのは允恭天皇、次が興(ホン)と呼ばれたのが第20代安康天皇、

次が武(ブ)は21代雄略天皇の事とみられているらしい。

近年かの有名な稲荷山古墳から鉄剣が出土したが、驚く事にそれには15文字の漢字が彫られていた。

そこに「辛亥の年7月に記す」と書かれていた。

それを西暦で比較してみると471年か、531年に比定される。

かなり大雑把な比定だが、既に大陸との交流はかなり深かったと思える。

この国から交流を求め、そして武は大陸の信任を得るために荘重なる上奏文を差し出している。

「封国は偏遠にして,藩を外に作す、昔より祖禰(そでい)甲冑をつらぬき、

東は毛人を制すること九十五ケ国、西は衆夷を服する事六十六ケ国、

渡りて海北を平ぐこと九十五ケ国、王道融泰にして、、、と訴え、

支持節都督倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に叙す。

の称号を得てる。

海北とは明らかにこの国を出て朝鮮半島を制したと訴えている。

雄略天皇と云えば別名大悪天皇とも呼ばれていた。

吉備の田狭の妻がならぶものなき絶世の美人だと聞くと、

その田狭を任那の国司に任命し、国外に追っ払いその妻をめとってしまった。

そして二人の子供を作っている。それが星川皇子の反乱につながる。

大体あの日本書紀にはわざと大陸との交流をはぐらかしている。

470年頃と云えばまだ大陸から文字が入ってはていない頃。

文字が入り始めたのは6世紀初頭西暦500年以降のこと。

和仁氏がこの国に初めて文字を持ち込んだと云われる。

そしてそれまで広大な前方後円墳を築き、庶民を従えていた時代も終わりを告げ始めた。

古墳時代とは西暦二百五十年ごろから五百七十年ごろまで、

さしもあれほど大きい墳墓は終わり始めたのだ。

聖徳太子が隋にあの有名な隋に書を送ったのが西暦607年ごろ。

それより一世紀以上前の話、日本書紀にも古事記にも全然違うことを書いている。

天武天皇がかかせ始めた古事記に日本書紀、古事記は推古天皇の処でとまり、

日本書紀は持統天皇の処でとまり、かなりの修正がくわえられている。

それを行ったのはかの藤原不比等だ。

最後に西暦720年まで生き、すべてに目を通し安心して死んでいった。

この国が天皇と名乗り始めたのは天智、天武天皇のころから、

それまでは大王と呼ばれていた。

「古代の話に突き動かされる」15.01.16  [古代の話]

 今日はお休みにしようと思っていた。

が新聞を開くと私の大好きな古代の話が乗っていた。

舒明天皇の話、小山田遺跡で一辺50メートルの方墳が見つかったと云うのだ。

舒明天皇の前の推古天皇は全く蘇我馬子の傀儡の様な天皇だったが、

聖徳太子を摂政に政務のほとんどは彼に預けていた。

当時そろそろ中央では前方後円墳が終わりを告げ始めていた頃。

日本の黎明期とも言われる時代。

聖徳太子の長男山背大兄皇子を立てても良かったのだが、

それでは余りにもバランスが狂うと云うことで無難な田村の皇子、

つまり後の舒明天皇になったと云うのだ。

その舒明天皇は宝皇女(たからのひめみこ)を妃にした。

だがこの宝皇女はすでに一度高向王(たかむくのおおきみ)と結婚していた。

そしてその高向王が早死にしたため里に帰っていたという。

そしてこの舒明天皇に再嫁したと云うのだ。

その13年後に舒明天皇は死してしまった。

本来なら長男と言われる中大兄皇子が継ぐべきだか、

何故かそれを避け、舒明天皇のお妃であった宝皇女が引き継いでしまった。

そして皇極天皇になる。

実はそこには日本書紀最大のなぞ、後の天武天皇となる大海人皇子の生年が記されていないのだ。

ひょっとすると中大兄皇子より年上ではないかとの噂もある。

皇極天皇が宝皇女と言われていたころ一度高向王と結婚している。

その時にできた子ではないかとの噂が絶えない。

中大兄皇子と大海人皇子は同じ父母の子と呼ばれているが、

後日の研究によりそうではないことが判明してきた。

此処に日本書紀の記述を曖昧にする最大の謎が隠されている。

当時は今の様に勝手に好きあった同士が結婚できると云う時代ではなかった。

すべて権力者が決めること、どんな運命も受け入れざるを得なかったのだ。

やむなくお妃であった宝皇女が天皇になった。

そして皇極天皇と名乗る。

が中大兄皇子は当時の曽我一族の専横に業を煮やしていた。

そして中臣鎌足と共にこれを排除しようとする。

つまり古代最大のクーデター曽我入鹿を暗殺してしまったのだ。

曽我の専横には王族一同も困り果てていた。

このまま放置すれば天皇家も乗っ取ってしまいかねない勢い。

そして遂に馬子の孫入鹿を暗殺すると云う所業に出る。

所謂大化の改新、それも皇極天皇の目の前で中大兄皇子自ら入鹿の首をはねる。

このクーデターの最大の功労者は中臣鎌足だ。

この功績をたたえてその死に対して藤原の称を賜う。

その座にいた皇極天皇はいったんここで退位する。

だが中大兄皇子が後を継がないのでたちまち孝徳天皇が引き継ぐ、そして都を浪速に移す。

その天皇をも置き去りにして中大兄皇子は一族を引き連れて大和に返ってしまう。

置き去りにされた孝徳天皇は空しく浪速の地で果てることになる。

それでも皇位を継がない中大兄皇子に業を煮やして再び皇極天皇が即位する。

今度は斉明天皇として、そんな時この国始まって以来の対外戦争が起きる。

この国と一番仲の良かった百済が新羅に攻め込まれる。

それを応援しようと出かけるがすでに時遅しだった。

「古代のロマンは一入(ひとしお)涙を誘う」14.11.30 [古代の話]

  世情は何かと喧しい。特に韓国の嬌態は目に余るものがある。

がそれを今更とやかく言っても収まるものではない。

何れ天罰が下って反日で狂い死にするだろう。

こんな時は古きこの国のロマンにひたり、暫し現世を忘れるとしよう。

古きこの国のロマン、中でも特にそれを掻き立てるのはあの木梨皇子の悲恋物語。

今を去ること1580年ぐらい前の話。当時同父,同母の兄弟の愛は禁じられていた。

同じ姉弟でも母が違えばそれは許されていた。

が二人は同父同母の兄弟であった。

許されぬ恋として日嗣の皇子に決まっていた木梨の皇子は皇太子の座を剥奪され、遠く伊予の地に流されてしまった。

木梨軽之皇子は一目軽大娘皇女を見るなり恋する心が燃え上がってしまった。

そして「徒空に死せむよりは罪有りと雖も何ぞ偲ぶることありや」と心情を述べ軽之大郎皇女に通じてしまった。

しかし日本の古代の語、日本書紀、古事記の中にはこれに似た話はいくらでもある。

例えば中大兄皇子と孝徳天皇の妃であった間人皇后(はしひとのこうごう)、二人は同父母の兄妹であった。

が二人は深く愛し合っていたと云う。

孝徳天皇を浪速の宮に置き去りにし、さっさと手を組んで大和に返ってしまった。

そのことをひどく孝徳天皇は恨んでいた。

と云う様な例はよく出てくる話だ。

そして木梨之皇子の妹の軽之大郎女(かるのおおいらつめ)も兄の後を追い伊予の地で共に果てている。

ところがこの悲恋物語、突如その後約千五百年後に地上に舞い降りてきたのだ。

時は明治27年(1894年)四国愛媛県宇摩郡妻鳥村字春宮(とうぐう)山にある春宮山の古墳から燦然と輝く金冠が村人によって発見されたのだ。

それも春季皇霊祭の日、たちまち村は上を下への大騒ぎ。

千五百年余りの昔が一気に蘇ってきたのだ。

日本書紀にはほとんど原因を同じくしながら、伊予に流されたのは妹の軽大郎女の方で、

軽之皇子は捕えられ、畿内にあった物部の屋敷で自殺したとも書いている。

古事記では木梨の軽之皇子は兄弟が9人もいた。

木梨之軽王(きなしのかるのみこ)次に長田大郎女(おさだのおおいらつめ)

次に境之黒日子王(さかいのくろひこのみこ)次に穴穂部命(あなほべのみこ)

次に軽大郎女(かるのおおいらつめ)次が八瓜之白子王(やつうりのしろひこのみこ)

次に大長谷命(おほはつせのみこと)次に橘大郎女(たちばなのおほいらつめ)

次に酒見郎女(さかみのいらつめ)である。

既に皇太子と決まっていた木梨之軽皇子は父母が同じの妹と通じたとして春宮から遠ざけられる。

春宮(とうぐう)とは皇太子の事、弟の穴穂部命の策略にかかり、王位を簒奪されてしまったのだ。

既に当時から王権の争いは激しく、勝と負けるでは天国と地獄。

穴穂部命の策略にかかり、遠流の地に配流と云う手段で王位を奪われてしまった。

誠に狡猾に最初はその気がないように装い、

臣下の推戴を多く集め、如何にも推戴が多い様に装い、

やむなく皇位を継いだようにふるまっている。

しかし古事記が最も情熱的に詳しく語るのは皇統の継承の話ではなく、

それから外された多くの敗者の物語である。

例えばヤマトタケルの物語、父景行天皇の命により西に東に豪族を平らげ遂に疲れ果て、

遂に三重の地まで帰り着きながら都にはたどり着けなかった。

三重とはそのヤマトタケル命が疲れ果て足が二重にも三重にも折れてしまったと云うところからきている。

そして軽之太子の物語。古事記の中つ巻には13種の大子の詩(うた)が載せてある。

が明治になるとそれらが全て消されてしまった。

皇国史観と云う政治的理由で、古代の詩は全て祈りの所産であり、

その怨念の凄さに戦き抹殺せざるを得なかったからである。

その皇位継承を策略によって貶められ伊予に流されてしまった大子。

その後を追った軽大郎女は共に伊予の地で果てたと記されている。

まだややこしいのは父允恭天皇がその布通姫(そとおりひめ)に痛くご執心であったと云われる

。そしてなんとか手に入れようとするが、姉の長田大郎女に阻まれる。

最後は布通姫が折れているが、そして皇位に就いたのが20代安康天皇である。

つまり穴穂部命。

がその安康天皇も部下に唆され、父の仇と狙う大伯瀬幼武皇子(おおはつせわかたけるのみこと)つまり後の雄略天皇に仇討されてしまった。

仇討にあって殺された天皇はこれが初めて。

雄略天皇もまた陰では大悪天皇と云われた人物。

その悪逆振りはまた別の日に書こう。

私事で恐縮だが、この地の近く伊予寒川(いよさんがわ)と云う地には母の一番上の姉が嫁いでいて子供の頃には何度か出入りしたことがある。

それは大きな屋敷で昔は庄屋か名主を務めていた由。

その裏の山のほとんどはその家の持ち物であった。田畑も多く持っていたがマッカーサーの農地改革で手放してしまった。

しかし山地は残った。

その裏山に木を切りに行き、前の田んぼで稲刈りをした経験もある。

当時まだ稲刈り機もなく全て手刈りである。

それが如何に過酷な労働であったか、今でも脳裏に焼ついている。

それ等もあって木梨之軽皇子の話はとても興味をそそられるのだ。

当時まだこの国には近親相姦と云う観念は低かった。

既にそのころ大陸中国では同姓婚を堅く禁じていた。

がこの国ではそんな意識はとても低かった。

それにしても古事記も日本書紀にしても読めば読む程古代の日本を垣間見せてくれる。

その行間の恨み潜みの数々の事件、決してきれいごとばかりではない。

「祝皇紀2674年、、、」14.01.05  [古代の話]

 日本には二人の「ハツクニシラススメラミコト」がいる。

一人は初代神武天皇のこと。二人目は第十代崇神天皇だと云われている。

そして初代から9代までの天皇は実在しなかったと云う学者が多い。

古事記には年表が書かれていないが、

日本書紀には崇神天皇の即位は紀元前97年に即位したと云われている。

しかし初代神武天皇の即位は紀元前660年ということになっている。

それを遡ること紀元前667年に日向の国を出て東征をはじめ、

6年7カ月かかって大和の国橿原神宮で即位した、と言われている。

しかしどう考えてもそのころ日本は縄文時代末期、中国大陸では春秋時代に当たる。

そこで崇神天皇が即位するまでの天皇は実在しなかったのではないかと云われる所以である。

そもそも神代7代にして初めて人形の神様があらわれる。

所謂イザナギノミコトと、イザナミノミコトである。

そして日本の島々を生み出し、次に天照大神を生み出す。

がその前に蛭子と云う不完全な子供を産む。

それはそのままそれを海に流す。実に都合の良いようにできている。

次に月読命を生みだし、そして天照大御神を生み、須佐之男命生む。

それから7代後に神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)と云われる初代の天皇が生まれる。

まだ半分神様の様な存在。

実在を疑われるのは無理からぬところだろう。

神武天皇の時代は前660年から585年まで実に78年に及ぶ。

しかしその前日向(ひむか)を出る前に既に45歳になっていた。

合計130年も生きていたことになる。

そして第二代綏靖(すいぜい)天皇が即位する。

前582年から前549年まで。

約35年在位する、がそれまでどれ程年を取っていたか分からない。

これも無理がある。

次に三代安寧天皇、即位が前548年、やく38年統治している。

次に四代懿徳(いとく)天皇が前510年から前、477年まで、

次、孝昭天皇が前475年から前392年まで83年、これも無理があるだろう。

そして次の孝安天皇が前392年から前291年実に102年君臨していたことになる。

これも無理だ。

次が孝霊天皇75年間の君臨。

第8代孝元天皇が57年、第9代開化天皇が前157年から前98年まで60年間。

そして崇神天皇に繋ぐ。

そして68年間の治世をする。

次に垂仁天皇に至っては99年間も治世をしている。

なぜこのような荒唐無稽な歴史書がまかり通っているのか。

実は戦前皇国史観として絶対批判をしてはいけない不磨の大典であった。

うっかり批判でもすれば即刑務所に繋がれる。

しかし戦後その箍が外され、自由に批判できるようになり、歴史家の先生の達の稼ぎ場所になってしまった。

遂にはあの聖徳太子まで架空の人物にされたものまである。

そして今年ももうすぐ2月11日建国記念日が来る。

つまり神武天皇が即位した日だと云われる。

今だそれを声高に主張する評論家の先生がいる。

今年は皇紀2674年だと胸を張っている。

何しろ西暦では2014年なのだから遙かにこちらが古い。

科学的根拠はなどと野暮なことは、、

「古墳と云うには、、、」10.12.19  [古代の話]

今日は日曜日だ。暫し政界の喧噪を逃れ、大好きな古墳の話を語ろう。

暫く前の新聞に第37代斉明天皇の古墳の事が書かれていた。

この老女帝、百済救援のため皇太子以下多数の皇族を引き連れ、

九州の博多湾の南方朝倉に出向き、橘の広庭に宮殿を造り前線基地とした。

その中には大田姫皇女も入っていた。

勿論皇太子の中大兄皇子も大海人皇子も入っていた。

大海人皇子の妃でもあり、中大兄皇子の娘でもある大田皇女。

つまり斉明天皇の孫、そして船団が大伯の港に停泊している時姫皇女が生まれ、

それを大伯皇女と名づけた。今の岡山県牛窓である。

その後悲劇の大津皇子を生んでいる。

だがこの老女帝何よりも土木工事が大好きで、彼方此方で大きな工事を起こしている。

最後は朝倉の行宮を整備するため、その前の森の木を切り払ってしまった。

途端に災難が降りかかり、宮中に鬼火が燃え、大舎人や近侍が病死し、

神の祟りだと言う流言が飛び、天皇の喪の夕べには大笠を着た鬼が表れ、

葬列をのぞき込む姿が見られたという。

この度見つかった斉明天皇の陵、牽牛塚古墳(けんごしずかこふん)と名付けられている様だが、

とても古墳という大きなものではない。

既にその前の孝徳天皇の時代薄葬令は出され、とっくに前方後円墳の時代は終わっている。

それによると王族は墳丘の大きさは巾九尋、高さ五尋と定められている。

しかし皇太子中大兄皇子は、母の墓に妹の間人皇女を合葬させている。

だがそれは斉明天皇が崩御して6年後だ。

斉明天皇崩御は661年、まだ間人皇女は死んでいない。

勿論大田皇女も死んでいない。

間人皇女が死したのは665年であり、大田皇女が死したのは667年。

日本書紀には我が墓に合葬せよとは一言も載っていない。

斉明天皇が強く望んだのは、わずか八才で死んだ孫の建王(たけるのおおきみ)。

この孫が可愛くてしかたがなかった。

斉明4年(658)わざわざ建王の尸(かばね)をわが陵に合葬せよと詔(みことのり)まで出している。

だからその建王はそこに合葬されている。

母を思い、妹の間人皇女を愛しく思っていた天智天皇は、

母の気持ちを忖度して一緒に合葬したのだろう。

だが大田皇女までは合葬できない。だからすぐ前に葬ったのだろう。

何分にも昔の様な大きな墳墓は作れい。

その陵は名付けて越智崗上御陵(おちのおかのえのみささぎ)と呼ばれていた。

いつ牽牛塚古墳と名付けられたのかは定かでないが、

大田皇女の陵は、越塚御門古墳(こしずかごもんこふん)と名付けられている。

母斉明天皇の死後、天智天皇は百済に大船団を送って救援をするが、

大唐と新羅の攻撃に、白村江で初めての大敗北を喫する。

この敗戦に急遽この國の守りを固めるため、彼方此方に防塁を造る。

そして都を近江に移す。

どれ程彼らの攻撃を恐れていたか、しかし新羅は大唐と組んでこの國を攻めなかった。

この國を滅ぼせば、狡兎は煮られるを悟り、むしろこの國との友好を選んでいる。

時が下って今、あの國にその分別ありや、、。

お互い西欧文明に振り回されている。
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