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「細川藤孝と光秀」(その4)08.05.27 [光秀について]


忠興が珠子を正妻としたのは、天正6年(1578年)の事である。

信長の命で二人は結ばれたと云うが、

それ以前からそうなるべく、運命づけられた様な二人だった。

それから両家の交際は、以前にもまして続いている。

そんな中で、信長の武威は益々高まり、

天正8年(1580年)には実質的に、天下を握った様な状態になった。

最後まで抵抗していた、本願寺顕如光佐が遂に石山本願寺を退去する。

この時点で、今までの緊張感が、解けてしまった信長、

それはとてつもなく身勝手な行動をとるようになる。

天から時代を間違って、舞い降りて来たようなた天才児、

一瞬にして戦略と戦術がひらめいていた信長、その心に大きな空白が生まれる。

何時も緊張感の中にいなければ、働かなかった頭脳は、あらぬ方向に走り出す。

そして興味の儘にフロイスの持ち込む話に、想像力は脹らんでゆく。

近江目賀山を安土と改名させて作った城も、既に彼の頭では過去のものになりつつある。

国内では全力を傾ける敵はもういない。

武田とて最早自壊しているようなもの、家康が格別努力してくれている。

目は必然的に海外に向く、神も仏も信じない男は、天皇家の権威をも信じない。

そんな中天正9年(1581年)藤孝と光秀は、里村紹邑を連れて天の橋立に遊行する。

その時、口に出しがたい懸念を二人は持っていた。

その前年、信長から丹後の一国12万2千5百石貰った藤孝、

尤も息子の与一郎に譲っているが、その遊行で藤孝は三種の歌を残している。

余佐の浦にて(宮津湾)、「そのかみに契りし初めつる神代までかけて思う天の橋立」

「いにしえに契りし神ふた柱いまも朽ちせぬあまのはし立」

「余佐のうら松の中なる磯清水みやこなりせば天も汲みみん」

そしてもう一首、これこそ藤孝の緊張感を詠んだ歌、

「ふた柱帰りさまさぬ橋立に遊ぶ吾は丹後の長ぞ」この歌に大きな意味が隠されている。

つまりふた柱、藤孝と光秀、これ以上の暴虐が続くなら、

秘かに信長を制さん事が、話し合った事が予想される。

光秀はその時には、これ以上信長の暴虐が続くなら、行動を起こすことを秘かに伝え、

その時藤孝は絶対中立で居るように、説得したのではないかと思われる。

我は差し違えども、細川家は末長く生きのこるよう持ち掛けたと思われる。

勿論極秘中の極秘、証拠になるようなものは、何一つ残されていないが、

後から出てきた光秀の数々の書状、それを隠すための工作、

又は牽強付会であったこと予想される。

それが証拠に事が起きた後、光秀は腹を切ろうとして、坊主に見つかり家臣に止められている。

藤孝が一瞬にして剃髪したのも、決して信長の為だけではない。

むしろ光秀にたいして頭を剃ったのかも知れない。

だから珠子を離縁もさせず、味土野の奥地にすぐ幽閉させた。

その彼女が何時の頃キリシタンになったのか、一説には天正15年(1585年)、

秀吉のキリシタン禁止令の出る直前とも云われている。

実は藤孝の妻も熱心なキリシタン、藤孝の妻は母の出所である清原一族から来ている。

麝香の方と云われるが、その実名は定かではない。

むしろ洗礼名細川マリアの方が後世に残っている。

忠興が小倉藩主になったとき、先例を受けたと伝えられるが、どうもその様には思えない。

忠興が小倉藩主に成ったのは、慶長7年(1602年)である。

既にガラシャは慶長5年(1600年)には死している。

彼女の死後キリシタンになったのではなく、ガラシャの方が、

彼女の影響を、受けていたのではないかと思われる。

藤孝の人生はその後も続くが、光秀との関係はここで終わる。

そして細川家は今も続く日本の名家、始祖京兆家としての細川氏は滅ぶが、

頼有を祖とする細川家、足利将軍家の血も継ぎながら、藤孝、幽齊につながり、

忠興、忠利、光尚、綱利、宣紀宗孝、重賢、治年、齊玆、

齊樹、齊護、あき邦、護久、(ここで明治を迎える)そして護成、護貞、

とつないで本邦第77代首相の護熙氏につながる。

藤孝、幽齊から数えて18代目に当たる。

かくのごとくこの國の歴史は連綿と続く、

ゆめゆめ一時の他国の文化にかき回されないよう願いたいもの、、、。 

 完

「細川藤孝と光秀」(その3)08.05.27 [光秀について]

兎に角何はともあれ義昭は京に帰り将軍になった。

だが藤孝には何とも云えない違和感、不安がぬぐい去れない。

義昭を将軍にするためだけに、ここまでの艱難辛苦に耐えてきた。

残念ながら、途中で義昭が成るべき14代征夷大将軍の座を、

従兄弟の義栄に先を越されてしまったが、だが彼は一度も、

京に上がることなく消えていった。

何よりも違和感は信長の出現、台頭である。

何をするにしても全く違う感覚、藤孝や光秀が持っていた、

世の中を見る目も、秩序観とも、旧来の統治観とも全く別のものであった。

義昭はただ有頂天に将軍になれたことを喜んでいる。

そしてその座につけてくれた信長に御父とまで書き記している。

さあこれから俺の天下が始まると、彼方此方に奉公するよう手紙魔の本領を発揮している。

そして信長に天下の副将軍にしたいと官位官職を進めている。

ところが信長にはきっぱりと断られ、それではこれまでの功績に答えられないと、

一層無邪気にそれを進める。たが藤孝は醒めた目で見ている。

そんなものとは全然違うところに、信長の望みがあることを感じている。

世の中が新しい時代に変わってきていることを肌で感じている。

それに自分の役目は果たしたとの安堵感がある。

この上は三次三人衆に横領された、持ち城の青龍寺城の奪還を計りたいと申し出る。

信長もその為に、手を貸そうと言ってくれている。藤孝はそれを断っている。

自分の力だけで取り戻すと、その厚意をはっきり断っている。

でも共に苦労してきた光秀からの助成はすんなり受けている。

光秀の寄騎150名ほどを借り受けて攻撃に出る。

藤考の考えの中には、武将としての矜持がある。

そして岩成主税介友通に占領されている城を含め近辺の奪還に入る。

既に信長を後ろ盾にしているとの印象は殆ど戦わずして岩成を下す。

信長はあくまでも冷静、いや冷徹である。光秀の才能も藤孝の能力もしっかり見抜いている。

何より能力を買う、だが義昭はその信長が見抜けない。

信長が二条の舘を義昭に進呈とする。

その奉行に細川の家臣荒川少兵衛と上野清治を任命する。

その二人が些細なことで喧嘩をする。

そして清信の鉄砲その他の所有物を持ち去る。それを清信が、義昭に訴える。

謀叛の下心があるのではないかと、それを又義昭が真に受ける。

そして藤孝を誅すべきだと云った。その一言は決定的に藤孝を仰天させた。

ここまで忠節を尽くしてきたのに、義昭の藤孝を視る目がこんなに軽々しいものであるか、

心の中で決定的に義昭を見限った。

その前に信長の藤孝に対する取り込みよう、

光秀の時もそうであるが、能力あるものは徹底的に重用する。

必然的に信長の方に傾いてゆく、だが、藤孝はそんな軽率な男ではない。

おくびにもその様な素振りも見せず、尚義昭に時代の変わりを諭そうとする。

義昭には骨の髄まで、室町作法が身に染み着いている。

やがて信長の陰に隠れて、御教書を彼方此方に振りまく。

遂に信長に見抜かれて決定的に縛られることになる。

それまで表立って反目しなかった二人の間に敵対関係の構図が出来てしまう。

永禄12年(1569年)10月伊勢北畠を責める頃には決定的になった。

藤孝は既に信長の実力を見抜いている。

そして義昭を懸命に説得する。義昭も既に藤孝を心の中では、すでに味方とも思っていない。

元亀元年(1570年)信長か本願寺と対立したとき、

藤孝は中之島の前線基地の守将を勤めていた。

そして遂に決定的に滅ぼされるときが来る。

宇治の槇島での敗戦は決定的に義昭を滅ぼす戦いになる。

その時最後の説得を試みたのは藤孝である。

だがここで子供の頃の養家であった、三淵藤央、藤孝にとっては義理の兄、

彼が義昭の命を救うことを条件に、責任をとって腹を切って義昭の命を助ける。

それから河内の若江の城に、秀吉に付き添われて追放される。

その様は惨めその物、農民、浪人が徒党を組んで、

一行の道中を狙い、義昭の持ち物を次々と奪ってゆく、

秀吉はそれを見て見ぬ振りをして略奪に任せる。

それがのちに秀吉が、16代将軍に成りたくて、義昭の猶子になることを申し入れるが、

決定的に断られる理由にもなっている。

そして藤考は信長の配下に決定的に組み込まれてゆく。

後日光秀と藤孝は信長の指図によって、信長軍団の一員として、手を組まされる。

かの珠子、のちのガラシャ夫人も、信長の指図で藤孝の長男与一郎忠興に嫁がせられる。

かくて両家は親類同士になる。尤もそれまでも親類以上のつき合いはしているが、、、

この後は次回にしよう。

「細川藤孝と光秀」(その2)08.05.23 [光秀について]

藤孝は異変を聞くや否や、28人の部下をすぐ引っ下げて、京に駆け上がった。

が時既に遅し、義輝は討ち取られた後だった。それを悲しんでいる閑はない。

義輝にはまだ二人の弟が居る。すぐそれに危害が及ぶ、

それを一刻も早く防がねばならない。

藤孝は一見風雅の人、茶道、文雅な人と見られ勝ちであるが、彼とて戦国の武将である。

剣は同じく塚原ト伝、上泉信綱から手ほどきは受けている。

若き日には雄牛の角をむんずと握り、後に押し返したと云うほどの剛力、ただの武将ではない。

その点もの柔らかながら、実力は有していた光秀とも似ている。

さて、案の定末弟の鹿苑寺(金閣寺)院主に収まっていた、

周暠(しゅうこう)は久秀一派が既に殺してしまっていた。

まだわずか17才、何をそこまで恐れるのか、そして次弟、一条院覚慶にも魔の手が伸びる。

その時既に覚慶は既に彼等の虜にされてしまっていた。

何としてもそれを救い出さなければならない。

一門の一色藤長とも語らい、覚慶に仮病使わせて、どうにか脱出させる。

その脱出劇にも一話はあるが、それは割愛しよう。

そして近江甲賀郡の和田伊賀守惟政の城に避難させる。

勿論惟政も清和源氏の流れ、前将軍義輝の直属の部下である。

京から遠くここまで落ち延びて見たものの、ひたひたと久秀の手は伸びてくる。

やむなくここも発って、少し先の琵琶湖のほとり矢島の里に移る。

ここで還俗して覚慶から義秋と名乗る。永禄9年2月17日の事である。

だが今まで味方していた、六角承禎や矢島衆が裏切り、ここも危うくなる。

かくて暗夜を琵琶湖に出る。

この時有名な義昭の残した漢詩が一首ある。

題して「避乱舟江州湖上」「乱を避け舟を江州(ごうしゅう)の湖上に泛(う)うかぶ」

と言うもの、内容は長くなるので置くが、恐らく藤孝も同じ心境だったであろう。

そして遠く実の妹の嫁している武田義統(よしむね)を頼って落ち延びる。

だがこの義統も家督相続の争いの真っ最中、とても落ち着ける状態ではなかった。

幸い義統の叔母の嫁している朝倉家から、丁重にお迎えしましょうとの誘いがある。

当主は朝倉義景である。かねてより義秋は手紙魔と言われるくらい、

彼方此方に手紙を書いている。勿論義景にも書いている。

その義景に誘われて、越前國一乗谷安養寺に宿舎をかまえて貰うことになる。

義景は義景でこの玉を握って、京に上ろうとの魂胆はあるが、

なにせ優柔不断な男、それに家中は騒然として、京にあがれるような状態ではない。

いくら催促をしても一向に輿を上げる気配はない。

その時光秀が朝倉に仕えていたのだ。

この教養深い、都のしきたりに慣れている食将は、必然として義秋の接待役を仰せつかる。

かくて藤孝との再会は果たされるのである。

お互いその時の感慨は口には表せなかっただろう。

あれから25年、感慨もひとしおのものがあっただろう。ここで面白い話がある。

有名な司馬遼太郎の小説、「国盗り物語」後編の中に、

藤孝と光秀の出合いの場面が出てくる。

それは琵琶湖の北西の山奥、朽木谷で神社の御神燈の油を舐めにくる妖怪が毎夜表れる。

その妖怪退治に光秀が出向いて、偶然にも藤孝と出会う場面を設定している。

落剥の将軍の夜の読書に必要な、明かりの油にも困窮した、

涙ぐましい藤孝の忠誠を絡ませて書いている。

如何にも小説家の創造力である。

だが司馬遼太郎は、最初から光秀の事にそんなに関心を持っていない。

年代も違うし、母と妻の名前も混同している。

それにあの時期諸国を遊学に回っている頃、

また将軍義輝に伺候して朽木谷に流浪している時に設定している。

まだ信長が義元を討つ前の時期にである。

あの作家にして光秀は、その程度に扱われたのである。

如何に光秀が禁忌であったか、明治の皇国史観の影響は、こんな処にまで姿を表れている。

光秀を、優しく良き人物に描いているが、史実の裏付けが確認できない。

さて本筋に戻ろう。そして藤孝の進めにより、

義秋も光秀を痛く気に入り、自分の家来にならないかと誘われる。

ここで義秋から義昭に名を変える。

秋の次は冬につながり縁起が悪い、昭の時には日を招くという縁起が担がれている。

だが、いくら義昭を奉呈して都に上がるよう説得しても、一向に義景は輿を上げない。

とうとうしびれを切らした光秀が、私の血縁に信長に縁付いているものがいる。

勿論幼き日に共に小見の方の元で育った帰蝶、お濃方である。

それを頼って義昭を奉呈して、都に上がろうと言う話が持ち上がる。

それに最近信長から光秀の元に、盛んに高禄で召し抱えるから、

我が家来にならないかとの誘いが来ている。

信長は、都の変事のすぐ後から、この義昭一行の動向に、特別の関心を持って凝視している。

かくて光秀の下工作によって、有名な立政寺での面会となる。以下は次号にしよう。

「細川藤孝と光秀」(その1)08.05.21 [光秀について]

藤孝と光秀が久しぶりの邂逅したのは、実に25年ぶりの事である。

光秀がまだ十兵衛となる前、京の天竜寺に学問を修めるべく、

上がっていた頃、六つ下の子供であった藤孝と顔を合わせている。

まだ藤孝とは呼ばれていない幼名の万吉と呼ばれていたの頃である。

あれは確か天文11年(1542)、光秀15才、万吉8才である。

そして時は移りお互い男盛りになり、堂々たる人物に成長している。

とは云っても光秀は、自らの領地明智の城を追われ、辛酸舐め尽くして

、越前朝倉家の食客になり、藤孝も流転変転の人生を歩み、

それらを歩んでの再会である。時は永禄九年(1566年)、越前の國足羽の里、

一乗谷安養寺の一角、落魄の前将軍の弟、義昭を抱えてここを仮の宿としてである。

細川藤孝は織田信長と同じ、天文3年(1534年)の生まれ。

織田の家系は些か怪しいが、彼はれっきとした清和源氏の末裔である。

信長は最初藤原氏を先祖としていた。何時の時点で桓武平氏と変わったのか分からない。

一方藤孝、彼は12代将軍義晴の御落胤だと云われている。

まだ義晴が正式に妻を貰っていなかった頃、

少納言清原宣賢(のぶかた)の娘を側室に置いていた、

が時の後奈良天皇に、関白近衛尚道の娘を正室にするよう勅命が出た。

当時は愛だ,恋だという世の中ではない。

そして宣賢の娘を和泉の三淵大和守に下げ渡した。

その時既に将軍の子供を宿していたという。

そして下げ渡すに当たって、もし男子ならば後継ぎせよ、と申しつけている。

そしてご丁寧にも沼田光兼と築山貞俊までつけ添えている。余程心残りだったのだろう。

無事男の子は産まれた。幼名万吉と名付けられた。

その子は五才になったとき初めて実の父、義晴に拝謁を許された。

だが、その時三淵大和守晴員は、義晴に訴える。

「それがしのような小身な者には、あまりに身分が適しませぬ、

然るべき身分のお家にお譲り渡ししたく存じます」と申し出る。

かくて万吉は細川播磨守元常の養子に引き渡される。

勿論三管領の名家の流れである。然るべき身分には遜色ない。

しかも同じ清和源氏の血を引く一族、まだ同じ河内源氏である。

足利将軍家から三河の国、細川郡を与えられて、細川を名乗るようになった家柄である。

幕府管領になった頼之の弟、頼有(よりあり)を始祖とするこの細川家、その7代目が元常である。

つまり8代目が藤孝になる。この血縁の流れが藤孝の成長に大きくのしかかってくる。

そして13代将軍に義藤、のちに義輝と名を変えるが、元服時に同じく万吉も、

元服し将軍の一字藤の一字を拝領して与一郎藤孝と改める。

その将軍は、実は腹違いの弟である。義藤11才、藤孝13才。

そのまま義輝に仕え、将軍への申次ぎ役を命ぜられ奉公する。

そして天文23年(1554年)養父元常の死により領主になる。

代々受け継いだ領地、山城国青龍寺、三千貫、当時の換算では、

三千石とも云われ五千石とも云われる。名前の割には小さな領地である。

そしてご存じ松永久秀一党によって、この将軍が暗殺される。

歴代の将軍の中でも飛び抜けて剣の達人だった義輝、塚原卜伝、上泉信綱直伝の名手、

何本もの刀を取り換えて奮戦するが、多勢に無勢、遂に力つきて討ち取られる。

「五月の雨は露の涙の時鳥(ほととぎす)わが名を上げよ雲の上まで」と辞世を残して散り果てる。

それが永禄八年(1565年)の事である。

義輝三十才、藤孝三十二才、たまたまその時、たまたま休暇を貰って自分の城に帰っていた。

正に青天の霹靂、その不運を取り戻すには、将軍家の再興以外にない。

それからが苦難の始まり、以後は次回にしよう。

「齋藤内蔵助利三のこと、」08.05.07 [光秀について]


大体歴史上の主人公、それぞれの武将の事は書かれているが、

その陪臣のことはあまり書かれていない。

でもその中でも、名を上げられるような人は並みの陪臣ではない。

この主人をも上まわる能力を持った、また者と言われる陪臣、

その人達にもスポットライトを浴びせなければ、歴史の奥行きは分からない。

例えば上杉謙信に使えた直江兼続、石田三成に仕えた島左近、

明智光秀に仕えた齋藤内蔵助利三、毛利輝元に仕えた安国寺恵瓊、

徳川家康は多すぎて絞れないが、一国一城の主となっても十分通用する名将である。

中でも光秀に仕えた齋藤内蔵助利三、代々齋藤家では、伊豆守を襲名していた。

が利三は内蔵助を貰っている。光秀を語るに絶対落とせない重要人物であり、

後の春日の局の父上としても有名な人物。

そもそもこの斉藤家は、藤原の北家の利仁流、斉宮職の頭を職掌としていた。

そして先祖は、あの倶利伽羅峠の戦いで敗れた、齋藤別当実盛と言われる。

黒髪を洗い落とせば白髪頸、若者に遅れは取るまいと、髪を黒く染めて戦場に出た。

武運拙く首は取られたが、木曽義仲をして、

我には例え三日とは云え、親代わりになってくれた人、

とはらはらと涙を流せた人、その人の流れである。

この内蔵助の父は、齋藤伊豆守利光、

その正妻はよく光秀の妹と言われるが、そんなはずはない。

なぜならば、光秀の父光綱は、光秀が生まれるとすぐ不治の病、労咳にかかり、

妻と引き離されてしまったぐらいだから。

以後薬餌にいそしむ日しか送っていない。女を近づけられる様な状態ではなかった。

ならば、やはり叔母の小見の方の妹、名前は定かではないが、それが一番妥当だろう。

そして内蔵助の妻には、稲葉通明の娘、お安を貰っている。

通明はあの一徹者で知られる、稲葉伊予守良通、通称一鉄の弟である。

これもよく言われることだが、良通に仕えていた利三を、光秀が引き抜いたとか、

それを訴えた一鉄の言い分を聞いて、光秀の頭を叩いたとか、

そんな浅薄な作り事に騙されてはならない。

良き部下を捜すのは良き武将の務めである。

それこそ後世の語り口、反逆者に仕立てるための付会である。

この利三には母の違う妹がいた。それが土佐の長曽我部元親に嫁いでいた。

一説には、本能寺の変で各地に散らばった明智の残党は、

多く土佐に流れてきたというのも、この縁を頼ってのことである。

後の春日の局の於福も、ここに一時身を隠したとも云われる。

ただ当時四歳の幼子、土佐まで本当に流れて行ったか、というのも疑問が残る。

利三は光秀が死して後も生き残り、一矢報いんと奮戦努力するも、

疲れ果てて農家の蔵で、うたた寝をしてしまった。

そこを見つけられて、捕らえられてしまった。

無理もない三日三晩闘い続けたのだ。

ついうとりとしても、致し方ないこと、そしてご存じ粟田口で首をはねられ、

その首を胴体に結び付けられて晒されてしまった。

当時はテレビも新聞もない、実物を晒さなければ、本当に死んだのかどうか分からない。

だから必ず首を晒すことになる。

でもその利三の首を盗んだ人間が居る。

海北友松、利三とは古いつき合い、千利休の弟子としても深いつき合いがある。

もともとこの友松は、浅井長政の家臣、海北綱親の子である。

それが利三の次男利光と、真如堂東陽院長盛とも組み、利三の首を盗み出したのだ。

この利光は一時立本と名を変えて、寺の坊主になっていたが、すぐ秀吉に捕らえられる。

そして少しも臆すことなく、これこそ忠孝の本意と、父の首を持ち帰った事を認める。

その堂々とした態度に、秀吉はそれを許し、加藤清正に預けられる。

そして後年朝鮮の役に出陣している。

ちなみにこの海北友松、後に朝鮮に渡り、宗人梁楷に山水画人物画を学び、

海北派と言う一派の始祖になっている。

世間で云われるように当時、必ずしも光秀を反逆者とは決めつけていなかった。

その家臣とし当然、主人の合戦には全力を挙げて闘うが、ただ憎くて闘うと言うではない。

第一秀吉の光秀残党狩りも、そんなに長く続いていない。

それに家康にしてみれば、自分を世に出してくれたのは、光秀だと感謝さえしている。

だから春日の局が直訴に来たとき、易々と願を聞いてやっている。

それは光秀の家臣として、奮闘した利三にも感謝しているからだ。

「明智光春考(その2)」 [光秀について]


光春は綾戸との間に子供は残していない。

が、その他の女(ひと)との間に、二人の子供を残している。

が母が誰か分からない。敢えてその名前は消したのだろう。

記録に残っていない。一人は太郎五郎である。

次は後に三宅藤兵衛重利と言われる人物である。

さて太郎五郎である。

晴豊に助け出されて以来、おか阿(おかあ)と呼ばれている女性とわずかの供と共に、

土佐の長曾我部元親を頼って逃げ込んでいる。

元親の正妻は斉藤利三の妹である。

当然そこ以外に逃げることはない。

後年それが所謂坂本龍馬につながっている、と云われている所以なのである。

この子は当時11才くらいと想像できるが、年齢については確かな事は伝わっていない。

ただ京都国立博物館無所蔵の「坂本家先祖書並び系図」に残されている書類には、

その由来が書かれている。又寺石正路著「南国物語『須賀加賀守娘おかあ事績』」にも、

その他数々の書物に、そのことは書き残されている。

つまり光春の最初の妻は、この須賀加賀守の娘「おかあ」だったのかも知れない。

最初の京都博物館の書類によると、初代太郎五郎、出生地は山城国となっている。

戦いを避けて土佐国長岡郡才谷村に来住すもとある。

近江坂本から一山越えれば山城國である。

二代目は太郎五郎の子供、浪人彦三郎。

そして出生が元亀二年になっている。

これは少々怪しい、太郎五郎嫡男とある。だが元亀二年は1571年、

それはむしろ太郎五郎の生まれた年頃だろう。

そして82才まで生きたことになっている。あの時代些か長命だが、

太郎五郎と、二代にわたっているのではないかといわれている。

なぜならば、元亀二年は、光春35才くらいの年である。

太郎五郎の出生年代と、間違われたのかも知れない。

ただた浪人という身分に何か意味がありそうだ。

それは兎も角、三代も浪人太郎左右衛門、延宝四年(1676年)死とある。

行年不明、そして四代八兵衛守之、五代才谷屋八兵衛、

ここで初めて高知城下に出て、才谷屋という商売を始めている。

その長男が商売を次男に譲って、郷士になっている。

そして始めて坂本を名乗っている。

大体坂本なる名前が、故郷近江の坂本城から取ったものと云われている。

その上家紋に明智家伝来の桔梗紋を使っている。

才谷屋と言う商売で、かなりの財をなしていたのだろう。

その名は坂本八平直海、そして次ぎに坂本八蔵直澄、

次ぎ坂本長兵衛直足、次ぎ坂本権平直方、その四男にあの有名な龍馬がいる。

これが坂本家の系図である。龍馬につながっているというのは、

それらの書物によって言い伝えられているものである。

それについて色々意見が出ているが、もう一つの系図にもちゃんとつながっている。

勿論途中で養子を貰っているが、既に太郎五郎から枝分かれした親類は、

かなりの数に広がっている。

その娘は光春の血の繋がった娘であり、養子の貰い先も一族からである。

例え一万リットルの中の一リットルとは言え明智の血と、光春の血はしっかり流れている。

何故かそれを否定するような文章が良く出ている。

それは明治政府の押した反逆者明智というレッテル、

それにより御用学者は、明智を避けて通るようになった。

むしろ秀吉の方が、明智にはそれほど悪意は持っていない。

勿論自分を引き立てるのに改竄はしているが、ものの4年ほどで、残党狩りはやめている。

勿論、家康は明智に感謝をしている。

天海僧正を光秀の成り代わりといい、

又光春をそれに擬していることも、いかに明智を大切にしているかである。

江戸期の学者も、光秀の事をそんなに悪逆反逆者とは書いていない。

如何に薩長が反逆者を作りあげたか、足利尊氏でも、本当は後醍醐天皇の為に、

天竜寺なる寺を建てたぐらいである。

そしてもう一人の弟、三宅藤兵衛重利、彼は細川家に引き取られているが、

勿論細川家に嫁した、ガラシャの縁からであるが、そしてその重利は島原の乱で戦死している。

しかしその子孫は代々細川家で続いている。勿論明治以降まで続いている。

これはただ光春の血のつながりだけであり、光春の生涯を書いた物ではない。

判明し次第書いてゆこう。

「明智光春考(その1)」08.03.27 [光秀について]


何時か光春を書こう書こう、と思っているのだが、

彼のことを調べれば調べるほど奥深い。

勿論それは光秀の大きさがあってのことだが、

加藤さんの云うように錯誤したままで書きたくない。

光春が左馬助秀満となった、原因にもなかなか興味がある。

兎に角彼は光秀の甥には違いない。

その父光安、彼が光秀に大きな影響を与えた人である。

いや光秀の心も体も育てたような人である。

どうしても光安は明智光継の三男坊として、その影は薄くなるが、

決して一言で語れるような人ではない。と同様その子光春も、一言では語れない。

まず父の妻の出自、三宅と云う家、その存在は、あまり世間には知られていないが、

あの太平記から、語らなければならない程の家柄である。

そもそもあの児嶋高徳が、三河広瀬に流れてきて、城を築いた事から始まるという。

それが何故光安と縁があったのか、同じ明智家でも遠山明智家と、

可児郡長山の明智家、そのつながり、これも分からない部分が多く隠されている。

光秀の明智家とは最初の出立が違う。

遠山明智家は藤原の、鎮守府将軍、利仁(としひと)流から出ている。

そして頼朝から、美濃の遠山荘を与えられたことに始まる。

当時は婚姻政策で、お互いの領地を支え合っていたところもある。

それらの関係であろうが、兎に角光安との関係が深い。

そして光安の子として光春が存在する。彼は天文5年(1536年)に生まれている。

そして屈託のない少年期を過ごし、二十歳になった時光秀と同じく、運命は暗転する。

明智城の落城は光春に取っても苦労の始まり、

しかし光秀を支えて、光秀であるところ、光春ありの一心同体で明智家を支えてきた。

あの時代、光安、光春親子は全く考えられないような真摯な信義を貫き、

律儀に秩序を守った一族は他にない。

そして明智城落城の頃には、既に長女綾戸は生まれていた。

光秀の妻熙子は、次の子供を身ごもっていたかもしれない。

そんな熙子とまだ少年だった、従弟の光忠を光秀、光春は引き連れて、

明智の地を退去したのだ。

若狭のお牧の方の処に、到着するまでは、艱難辛苦の限りを尽くしただろう。

その時光秀にはこの若者が、どれ程頼りになったか、

苦労を分かち合った中こそ本当の信頼関係は生まれる。

それを見届けて、光秀は諸国遊学の旅に出る。

実際近畿管領職のような光秀が、あそこまで働けたのは、この光春の助けがあったからだろう。

それが弘治3年(1557年)それから5年以上、光秀は家族の元を離れる。

当然次の子供はそれから帰ってから、翌年かの有名な珠子(ガラシャ)が生まれる。

彼女も光春にとっては、後年大きな影響を与える。

ご存じ後年光春は、光秀の娘綾戸を正室に迎えている。

しかし、それは荒木の嫡男に嫁いでいたが、村重謀叛によりが送り返されていた事による。

その時天正六年(1578年)この時彼女は既に24.5才になっている。

当時としてはかなりの年齢、一方光春は何歳だったのか、彼は既に41.2才になっている。

それまで女を一人も寄せつけなかった、と云うことはないだろう。

ならば外の女との間に、子供がいても不思議ではない。

それとも荒木に嫁ぐ前から、この綾戸に思い入れがあったのか、歳が違いすぎる。

何れにしても初婚とは考えがたい。

そして光秀と義理の親子になった。それを縁に、秀満と名乗ったと思われる。

左馬助これは父からの引継官名であるが、

光継の次男光信は山岸家に養子に行っている。

と言うことは父光安が実質的に次男のようなものである。

光秀の父より一等下がる官職官名、助とか介は次官名である。

そしてあの本能寺、この妻綾戸はこの時丹波の奧に逃げている。

光春があらかじめ逃がしていたのかもしれない。

だが直ぐ秀吉の家老、杉原家次に捕らえられている。

この家次は秀吉の正室「ねね」の叔父である。

勿論京に連れ戻され、叔父の長閑斎と共に、磔の刑されるところだったが、

勧修寺晴豊が命がけで、秀吉をかき口説き命を助けられている。

そのことは晴豊の日記にも、しっかり記されている。

助けられた綾戸は、その後、菅沼新八郎定盈(さだみつ)に再び再嫁している。

その際光春の子供二人も助け出されている。

綾戸の連れ子と言われているが、光春の子供には違いがない。

その子供行く先が、光春の存在をより大きくしている。

何れにしても一回で語れることではない。

以下は次回に廻そう。

「明智光安考」08.03.09 [光秀について]


光秀の父光綱は天文七年、(1538年)35歳で亡くなっている。

光秀11才の時である。そしてその父つまり祖父光継は、その翌年この世を去っている。

そして死に際して、三男光安に光秀が成人するまで、この明智を守れと遺言した。

律儀な光安は、頑なにその言いつけを守った。

そして光秀19才に成人したとき、時来たりと、光秀に当主の座を譲り渡そうとした。

しかし光秀はこの乱世を切り盛りするには、今一つ修行が足りない、今暫くと、猶予を願っている。

その光安であるが、あまりその生涯については、つまびらかにされていない。

勿論光秀の本能寺の変のために、とばっちりを受け、記録は消されている。

どの書物にもその実像は明らかにされていない。

だがこの光安こそ、光秀をあそこまで正義に走らせた陰の人物である。

生まれは永正4年とも、6年とも云われている。

どちらにしても1507年か9年であろう。

そしてその死は、弘治2年(1556年)、明智城落城の時である。

その死は壮絶で、わずか350人程度で、押し寄せる斉藤義竜の、

三千とも五千とも云う攻め手を、何日も悩ませ、遂に一族共に華々しく果てている。

その際、光秀に一族再興の為に落ち伸びよと説得するが、

光秀は何としても城と共に殉じたいと強固に言い張った。

最後は怒声でもって、「一時の思いに負けて、このまま明智を亡びさせて、

先祖にどの様な申し開きが出来るか」と叱りとばして、遂に落ち伸びさせた。

勿論、滂沱累々の別れである。

そして我が子光春と、弟光久の子、光忠を託し、わずかの妻子眷属を連れて落ち伸びさせている。

その光安の内室は、三州広瀬の三宅氏から来ているという。

それは三宅高貞(みやけたかさだ)の女(むすめ)お鶴とも云われる。

この三宅家は、備前児島から流れて、三河の国に住み着いたと記録されているが、

いつ頃三河に住み着いたものか定かではない。

一説によると、児島高徳がここに流れて来て、城を築いたとも云われる。

それは後をずっと受継いだ政貞(まささだ)の子、康貞(やすさだ)が、

天文十三年(1544年)生まれ、が家康の幕下に入った事が、記録に残されている。

一時は出雲守を名乗ったこともある。

ついでにこの三宅家は、三河田原一万二千石として続き、明治の時代に子爵に列せられている。

この広瀬とは今の豊田市の北部、名鉄三河線の三河広瀬の当たりである。

ここに問題がある。加藤廣さんの「明智左馬助の恋」では、この光春が備前児島の常山城主、

児島徳直(のりおき)の次男の弥平次だという。

そしてかの有名な児島高徳の末裔だという。

そして光安の養子ではなく、光継の四男の光久の養子にしている。

しかし、常山城主は三宅氏ではない。

それは三村氏である。そもそも備中の兵乱は、三村氏と宇喜多氏の争い、

そしてこの時天正3年、(1575年)である。

確かに備前児島には多くの國人、土豪の武士団がいた。

児島は総称、三宅、飽浦、小串、田井、宮浦、等々の武将が、

あの後醍醐天皇の建武の親政に際して、多く天皇方について戦った。

だが三宅氏と三村氏の人違い、それに光安の子でなく、光久の養子にしている。

常々歴史小説は限りないノンフィクション、と述べておられた加藤さん、

これをどの様に説明されるのだろうか。

尤も諸説紛々、加藤さんだけが異説を唱えているのではない。

全く様々な意見が並べられている。

その中の一つと思えば目くじらを立てるほどの事もない。

光安が二十歳の頃に、妻を娶ったとするならば、大栄7年か、享禄元年頃(1527.8年)頃である。

そして光春の生まれは、天文5年(1536年)生まれである。

この光安にはもう一人子供がいて、名は利景(としかげ)、それは遠山明智家に養子に入り、

代々徳川家の旗本を勤めている。名奉行遠山の金さんは、その末裔の一人である。

そして光春は信長より二つ年下、光秀流浪の時代、母の縁で、三宅弥平次と名乗ったこともある。

光春、後の左馬助秀満、その父である光安、明智の再興を光秀に託して、

城を枕にこの典厩光安、典厩とは左馬助の唐風の呼び名である。

名を明智の城に残して、一族と共に、華々しく散り果てる。

思えば初代頼重が、康永元年(1342年)この地に城をかまえて、

二百十五年、明智一万五千石の領地は、ここに消えることになる。

「光秀と妻熙子と八重」08.03.02 [光秀について]

愛する初恋の千草を失った光秀、その悲しみの大きさのあまり、しばらく立ち直れなかった。

だがあの時代、その様な私情を許して貰えるような時代ではない。

光秀もそれを十分承知している。

千草の父、山岸家に養子に行った光信も、彼は父光綱の直ぐ下の弟である。

彼も一日も早い光秀の立ち直りを気遣い、千草との間で成した子供を引取り、

光秀の気持ち解放しを引き立ててやった。

折りから明智の当主の座を預かっていた叔父の光安、

立派に成人した光秀に、その座を引き渡そうと申し出た。

彼は祖父光継の三男、実質明智最後の当主を担う事になる。

彼は兵庫守と称し、老いては宗宿と号した。かの光春の父であり、当時希な有徳な人物である。

時は戦国下克上の真っ最中、兄が弟を殺し、父が我が子を、政略の道具に使って憚らない時代、

祖父光継の言いつけどおり、時来ればと、しっかり明智を守っていた。

こんな信義に厚い律儀な武将が、あの時代いただろうか、それはそっくり光秀に引き継がれた。

すっかり成人した光秀を見て、時来たりと、当主の座を引き渡そうとした。

しかし、光秀は未だその重責を担うには重荷に過ぎる、今しばらく修行を積みたいと辞退した。

一族協議の上、しからば今しばらく、と猶予を認めた。

時に光秀二十歳前である。だがあの頃の二十歳は立派な成人、

光秀は十六才で光安の加冠で元服し、十兵衛尉(じゅうべいのじょう)光秀と名乗っていた。

何時までも恋の痛手に悲しんでいる場合ではない。

家を継ぐにも正式の結婚は早い程良い。

そして次の子供を、如何に多く作るか、それも立派な当主としての仕事である。

そして遂に一族の妻木家から、正式に妻を娶ることとなった。

それは明智を名乗って三代目、國篤から別れて行った一族、美濃国妻木郷を貰い、

そこに住み着いて妻木を名乗っていた。

これは土岐から明智に別れてから、枝分かれした一族、土岐源氏から直接別れたものではない。

この様に一族はその血脈を保つように、婚姻を重ねるのが当時の習い、

婚約をしたのは光秀二十二歳、天文十八年(1549年)の秋である。

妻になる熙子は十六歳、父は妻木勘解由左右衛門範熙、彼にはこの熙子の下に、

二才違いの女子かもう一人いた、名を八重という、この八重も光秀には重要な人物である。

後年姉が病に倒れ今わの際に、我亡き後は光秀の面倒をと、

請願して後妻とさせた女(ひと)である。

一度他家に嫁したが、夫が戦死し実家に帰っていた。

当時は芳子と名乗っていたが,坂本城落城の際、

秀満に自害の介添えをさせたのは彼女のことである。

さて余談が長くなったが、本題に戻ろう。年が明ければ祝言を上げよう、と話は決まっていた。

ところがその年明け早々、熙子が当時尤も忌み嫌われる病、疱瘡にかかってしまった。

幸い病は回復した。が人もうらやむその美貌が、無残なあばた顔になってしまっていた。

そこで父範熙は、これでは光秀に申し訳ない、変わりに妹の八重を貰ってくれるように申し出た。

だが、光秀は律儀者、例えどの様な顔になろうと、私が婚約したのは熙子である。

とその申し出を断って、熙子を貰ったのである。

そして天文十九年(1550年)四月十五日、二人は正式に結ばれる。

この律儀さ、全て幼き頃から、叔父光安から薫陶を受けた、教えその物である。

熙子はこの光秀の人柄に感激、父範熙は只恐縮するばかり、

この事は二人の結びつきを一層堅くすることになる。

だが結びつきを、尚強くする事柄は、この先にまだ出てくる。

世間に知られているのはこの熙子こと、この様にして光秀の若き頃は、のびびと育っていった。

そしてあの斉藤道三は、小見の方との間に次々と子供が産まれてくる。

その縁で、光秀は武将として、戦場での戦い方を、道三にじっくり実地指導されている。

道三が見込んだ叔父光安、その律儀と義理堅さが、やがて仇となって帰る事態が発生する。

それは光秀と熙子の間に三人目の子が、出来た頃起きることになる。

以後次回で、、

「戦いの裏側も、、、」08.02.23 [光秀について]

光秀が生まれたのが享禄元年、(1528年)その父親光綱の生年は、

永正元年(1504年)そして三十五才、天文七年(1537年)、光秀十一才の時、

不治の労咳で病死したと云われる。光秀は父光綱24才の時の子である。

母お牧の方19才の時である。彼女は永正九年(1509年)の生まれ、

そして後ろ髪引かれる思いで、明智の城を後にしたのは、光秀二才、

その頃氏王丸と呼ばれていたが、それが享禄三年(1530年)と云われている。

余談だが、この年後の、上杉謙信は生まれている。

さてその原因は、祖父光継の室と折り合いが悪く、

いたたまれなくなって、城を飛び出たと云われている。

この後に陽台院と呼ばれた姑、彼女は隣国尾張の、尾関石見守の妹と云われている。

だから彼女から見れば、一等その地位が低いのである。

だがこの姑、光綱が薬事にいそしむ毎日になると、子を成すに不用、

とたんに態度は豹変する。それにあの時代の女性は、出家の誇りを背負っている。

ついついそれが邪魔になって、上手くいかないこともしばしば、、、、

そんな不幸に巻き込まれて、氏王丸は母から引き離された。

そんな彼を母代わりになって育てたのは、父の一番下の妹、叔母小見の方である。

この美しく優しい女性、彼女は母と殆ど変わらぬ、永正八年(1511年)生まれ、

そして道三に嫁いだのが、天文二年(1532年)二十一才、道三四十才の時と云われる。

ご存じ彼女には、帰蝶なる娘が生まれる。

だから光秀はその帰蝶、又の名農姫、(後の信長の正室)、

とも云われる、この女子と一緒に育ったのである。

世間では、秘かに光秀を慕っていたとも云われる。

これは後世の物書きが、穿って小説のネタにしたのだろうが、

まんざら見捨てるには惜しい題材である。

その美しき叔母も、天文二十年(1551年)、39才の若さで病死している。

その祖父光継は、文明十四年(1482年)と云われている。

もっとも明智の歴史は殆どうち消されているので、この祖父に関しては、

若干の異論があるかも知れない。

そして光秀に最も影響を与えた、叔父の光安、彼の生年は永正四年(1507年)である。

この光安ほど光秀に、影響を与えた人物はいない。

あの時代、下克上満帆の時代、これほど義に厚く、信義を守る男、

信長も時代を間違って生まれたといわれるが、

彼こそ時代を間違って生まれた最大の人物であろう。

それを道三に見込まれて、末妹、お見の方を乞はれた。

それは道三が、明智一族を味方につけたかった最大の動機、

実はその斉藤道三の生年がはっきりしない。

一説には明応三年(1496年)とも云われ、光秀の父と同じ永正元年とも云われている。

彼らは親子で、あそこまでの地位に、上り詰めたとも云われている。

そして同年代を生きたそれぞれの武将達、その年齢関係を調べてみなければ、

歴史の事実が、よく飲み込めない。

例えば武田信玄は何時生まれたのか、彼は大栄元年(1521年)生まれ、

それを知らなければ、家康の若き時の本当の姿は分からない。

あの時、家康が家老達の止めるのも聞かず、

ここで止めるなら、刀を折って武将をやめると言い放って、無謀にも信玄に挑み掛かった。

勿論一蹴されて、けちょんけちょんに追っ払われた。

それを後の失敗の鏡として、あの有名な、しょんぼりした画像を残させたのだ。

この元亀三年(1572年)信玄は52才、家康は天文十二年(1543年)生まれ、

まだ30才にとどかぬ若造であった。

しからば信長は何時生まれたのか、彼は天文三年(1534年)の生まれで、

秀吉は天文六年(1537年)の生まれである。

彼等達が活躍した時代、この日本の古代の皮を脱ぎ捨てたような時代、

この国の歴史の中でも、最もダイナミックに躍動した時代、

今日のこの国の土台が、殆ど固まり掛けた時代である。


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